手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

本ブログの表記法について

ぼくは「現代仮名遣い」と「常用漢字」に基づく表記法にはしたがってゐません。なぜなら敗戦直後におこなわれた国語改革は誤りであり、これを批判的に問い直す必要があると考えるからです。この考えは次のような認識にもとづきます。

 

日本は敗戦処理に失敗した。

ぼくの理解では、残された敗戦処理の問題は、①片面講和(アジアとの和解)、②日米同盟(安保、沖縄)、③国家神道天皇制、信仰)である。大日本帝国の解体と新日本国の形成が冷戦構造におけるアメリカの世界戦略に適合するかたち(防共の砦)で行われたことによる負の遺産といえる。

ソ連が崩壊し昭和が終ったときがこの問題に取り組むべきタイミングだった。平成30年間にいくどかの政権交代がありその試みはたしかにおこなわれたが、いづれも挫折し、むしろ反動として対米従属が深まり大日本帝国的価値が復活するという結果になってしまった。

このままの体制で突き進めばなんらかの破綻にゆきつくに違いない。残された敗戦処理に取り組むことを通じて新しい国のかたちを構想する必要がある。その一環として国語改革の批判的検証が為されるべきである。

一環として、とは全体のなかの一部という意味である。全体を構成する要素のなかでもっとも重要なのは上に挙げた三つである。国語改革の問い直しはそれらに比べればちいさな部分といえる。けれども軽んじることのできない重要な一部である。なぜなら言語表記は国家観の反映だからだ。

自分たちは何者であるのか、どのような歴史と伝統につながり、なにを価値とするか。そのような自意識が表記にあらわれる。

戦後の日本は敗戦処理に失敗したために統一的な歴史認識をもつことができなかった。戦前に郷愁をいだくひとと、戦後に愛着をいだくひとで、まったく違った歴史認識をもち、国家観が分裂してゐる。

この分裂は憲法の表記にもあらわれてゐる。

日本国憲法の表記は漢字については康煕字典体、仮名遣いは歴史的仮名遣いで書かれてゐる(こちら)。公布は1946年の11月3日。それから約二週間後の11月16日に「当用漢字表」と「現代かなづかい」が示された。国語改革の本体はこのふたつの指針である。

当用漢字表」は漢字全廃を目指して字数を制限したものであり、「現代かなづかい」は仮名遣いから歴史的的一貫性を排除して完全なる表音的仮名遣いを目指したものだ。すなわち日本国憲法の表記とは志向するものが正反対で、これを完全に否定するものである。

時間が経ち、漢字全廃も仮名遣いの表音化も失敗して中途の状態を追認することになった。それが1981年の「常用漢字表」と1986年「現代仮名遣い」である。現在の日本語表記に関する公的指針はこのふたつとその改訂版であるが、ここで康煕字典体および歴史的仮名遣いは明確な位置をあたえられてゐない。

だから旧漢字と新漢字が、旧仮名遣いと新仮名遣いがどういう関係にあるのかよくわからない。どのような理念にもとづいて、なにを基準として、どこを変えたのか。どういう建て付けで、どういうストーリーでそうなってゐるのか。そこがまるでほったらかしなのだ。

とすると、憲法を改正する場合にその表記はどうするのだろう。戦後の理念を示す憲法が表記に関しては戦前と連続してをり、70年以上一度も改正されずに現在にいたってゐる。他方で憲法以外の一般法および行政文書全般は国語改革によって簡略化された表記法で書かれてゐる。この分裂をどうするか。

憲法の表記も新字・新仮名遣いに変更すべきだろうか。ぼくは反対だ。なぜなら普遍的な理念を示す憲法は普遍的な表記で書かれるべきと考えるからだ。

現在の新字・新仮名遣いは簡略化の途中で止まったものに過ぎず安定性に欠ける。今後も変わりうるもの、状況に応じて変えてゆくべきものだ。だからこそ正統表記という座標軸を仮設しておくことが必要と考える。

いわゆる康煕字典体と歴史的仮名遣いを正統表記とし、その簡易版として常用漢字と現代仮名遣いを位置づけるべきである。正統表記とはいわば座標軸である。X軸とY軸があることでどこになにがあるかがわかる。構造的に把握し易くなる。

  • 康煕字典体と歴史的仮名遣いを正統表記とする。
  • だから日本国憲法はこれで書かれてゐる。
  • しかしこの表記法を現代のすべての国民が実践することは困難であり、またその必要もない。
  • したがってその簡易版として常用漢字と現代仮名遣いを定め、行政、教育ではこれをよりどころとする。

このような建て付けにすれば筋が通るし、座標軸があるために議論が空転せずにすむ。憲法改正の際にもその原典は康煕字典体と歴史的仮名遣いを踏襲すべきである。そのほうが憲法の理念的性質、最高法規としての権威を示すことができる。

軸とは歴史的継続性のことである。近代日本は維新と敗戦で二度おおきな断絶を経験してゐる。二度、自分たちの過去を否定してゐる。老齢に入ったこの国で、その傷がいま癒しを求めてゐるのではあるまいか。新しい国をかたちを考えるにしても、国語改革を問い直すにしても、歴史性をいかに回復するかという方向性のもとに為されるべきである。

 

上のようなことを考えて、このブログではいろいろな表記を試してゐます。

現状をただ追認するのでも、復古主義に走るのでもなく、捨ててはいけなかったものをひろいあげ、それを現在のなかに適切に位置づける。そのような調整作業によって、過去とのつながりをもっと太くすることができるはずだ。

その調整作業を個人で出来るかぎりやってみようというわけです。だから記事によって表記が異なりますが気にしないでください。

仮名遣いについては、「現代仮名遣い」を基準に、

・助詞の「さへ」「づつ」

・存在を意味する「ゐる」「をる」

・「ぢ」「づ」「じ」「ず」、いわゆる「四つ仮名」を使用した語

を「歴史的仮名遣い」で書く、という原則で表記してゐます。

「四つ仮名」を使用した語とは、例えば「いづれ」「いづこ」「まづ」「むづかしい」「はづかしい」「すぢ」「いぢる」「ねぢる」「とぢる」「ぢゃあ」などです。

いい具合に落ち着いてきた感触があるのでこれで固定してゐます。

詳細は☟をお読みください。

漢字はたいへんな難問でこれまで避けてきたのですが、規範がないことに耐えられなくなり自分で漢字表☟をつくることにしました。

送り仮名については☟をお読みください。

国語改革は敗戦を契機として過去のことも未来のことも考えず、「いまここ」の都合によってなされたものです。日本語表記においても敗戦の傷跡がまだそこここに残ってゐると思います。