手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

敗戦と独立

昨日8月15日は敗戦の日

夜遅くにダンスレッスンだから夕飯は軽めに済ませた。そしたら先生から、今日は休みにします、「Happy Independence Day to everyone!」とメッセージが届いた。そうかインドは独立記念日なのか。

日本の敗戦日がインドの独立記念日である。ドキリとするが、これは偶然の一致であり、日本の降伏とインドの独立とは関係がない。インド独立法が発行したのがたまたま8月15日なのだ(1947年)。けれど日本人としてはこの暗合に一瞬黙り込むことになる。同じ日に、こちらは反省、あちらは祝福。

こう書いて、日本は日本国の誕生や存在そのものを祝福する日がないことに気づく。建国記念日紀元節)があるが、なんか「ふーん」て感じだ。神武天皇が即位した日だそうだが、それは日本書紀に根拠があるもので、いまの国家国民とは距離がありすぎる。やはりネイション(Nation)としての日本国を言祝ぐことが出来る日がほしい。

そうなると憲法記念日の5月3日かサンフランシスコ講和条約が発行した4月28日ということなるが、憲法は占領期にGHQ主導で作られたものだし、サンフランシスコ講和条約による主権回復は沖縄の犠牲の上に成されたものだ。いづれも国民として素直に祝福することは出来ない。

この状態は国家として不健全だ。敗戦国はずっと敗戦をひきずるしかないのか。日本と日本人がここに在る以上、その存在を肯定しなくてはならない。そう考えると、「ネトウヨ」と呼ばれる人達が天皇を崇めるのも、靖国神社をありがたがるのも、押し付けだとして日本国憲法を憎むのも分かる気がする。そこにしか拠り所がない。「地球市民です」では無理だ。

しかし彼らの「愛国」運動によって不健全な状態が解消されることはない。なぜならこの不健全な状態は煎じ詰めればアメリカとの隷属的な関係に集約されるにもかかわらず、彼らの「愛国」運動はアメリカに進んで隷属することによる安心感に担保されてゐるからだ。

朝鮮中国との関係は悪化してよい、だって日米同盟があるから。靖国神社参拝は控えよう、だってアメリカがやめろと言ったから。そういうこと。アメリカが許す範囲で大日本帝国的価値をもてあそんでゐるだけで、その方向で推し進めても自己嫌悪が深まるばかりだ。

ぼくは政権交代を強く望む者だが、その背後には上記したような「愛国」とは別の、本当の愛国運動がなければならないと考えてゐる(このブログの表記法はそのささやかな実践のつもりだ)。

と、書いた途端にうそ寒い心地がしてくるのはなぜだろう。ぼくもまた、日本は変わらない、ずっとこのままだと、内心では諦めてゐるのだろうか。