手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り🌴

「インド史」山本達郎 編

インド史」山本達郎 編 山川出版社 1960

もう図書館に返さねばならない。読了までかなり時間が掛かった。中世まではすごく面白く読めたけれど、イギリス支配以降はしんどくてほとんど頭に入ってこなかった。記述が細かすぎる。このレベルの詳細な記述を面白がれる知識が今の自分には無い。

さっさと諦めて、近代はピンと来た箇所だけ読むように切り替えるべきだった。失敗した。そういうこともある。しかし悔しいですよ。自分の知識不足と学力の限界を突き付けられるわけだから。

以下、ノートをば。

インドの地理的特色。

  南北両インドの間の重要な差異の一つは、北インドに雪解け水を入れる川があるのに、南にはないという事実である。南インドの川は雨季には急流となり、残余の期間はほとんど水がないため利用しがたかった。インダス川ガンジス川はヒマラヤの雪原から流れ出し、規則的な流水量があるから、ある季節にはアラビア海からラーホールまで、およびベンガル湾からアーグラまでも航行ができるので、これまで両水系は交通機関として大いに役立ったし、また季節風と相伴って灌漑用水として重要な働きをした、これらのために北インドは人口が密集する先進地域をなし、インド史の主導権は北インド、とくのその中心であるガンジル主平原が握ってきた。 4-5頁

すごく面白い。こういう事実を一つ知るだけで、インドへの理解がぐっと深まる気がする。地理はとても重要。

インドとペルシア・イランとの関係。紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシアが興り、ダレイオス一世は西北インドインダス川流域をその支配下においた。

(・・・)ここにインドとイランとの間に文化的宗教的交渉が生じた。その影響としてはまずカローシュティー文字の導入がある。アケメネス朝では官用文字としてセム系のアラム文字を使用していたが、その王朝の西北インド支配を通じて、紀元前六世紀にインドに入った。この文字はインドではカローシュティー文字と呼ばれ、インドの言葉を写すために改良を加えられて、この後インドの西北部に数世紀間使用されていた。カローシュティー文字は右横書きのアルファベット文字で、同じアラム文字の分かれであるフェニキア文字とは親縁関係にあるから、この時代、ペルシア帝国の文化的影響で広くヨーロッパ諸国などと同系統の文字圏に入っていたわけである。 29頁

これも大事。中世のイスラム侵入よりはるか以前から、インドと西アジアとの交流は盛んだった。北インドから西アジアにかけての文明の流れを把握したい。

マウリヤ朝によるインド統一の意味。紀元前4世紀、チャンドラグプタはアレクサンドロス大王の死によって混乱に陥った西北インドを征服し、ベンガルからインダスに至る北インド全域を統一した。

(・・・)インド史を通じて、インド自身の手による統一国家の実現は、その数が多くないのであって、紀元前四世紀末に、当時のインド世界の主要部がこの王によって統一されたという点で、この事件は注目に価する。この統一はインド最初の強国として長らくマガダに蓄積された財富が基となったと思われ、シャイシュナーガ朝以来のマガダ国の膨張政策が継続完成した姿である。したがって東インドから西北インドに向かっての統一完成の方向を考えて見ると、西北インドから東進したインド=アーリア文明の波が、紀元前六・五世紀に一応東インドまで達した結果、逆に西方に揺れかえす動きが始まって、この頃、西北端まで達したと見ることができる。 32頁

なるほど、西から東、そして東から西か。こんな整理の仕方があるのだね。目から鱗ですした。やっぱり地理は大事だ。

マウリヤ朝が崩壊して数百年の間インドは混乱期に入る。これを再統一したのが4世紀のグプタ朝グプタ朝創始者はチャンドラグプタ一世で、彼の目指したのはずばりマウリヤ朝の復興だった。名前までマウリヤ帝国の初代王から取ってゐる。

グプタ朝の時代はインド文化全般にわたっての黄金時代であり、ヒンドゥー教が発展し、サンスクリット文学が勃興し、グプタ式美術が生れた。マハーバーラタラーマーヤナの現存形が整えられたのもこの時期のこと。

ムガル帝国のアクバル帝。

(・・・)彼は結婚政策により、また、懐柔や交渉、提携などの平和的な手段によって、ヒンドゥー教諸勢力をムガル帝国に吸収しようと試みた。宗教の差異による社会的身分の差別はそれほど目立たなくなった。ヒンドゥーの聖地への巡礼に対する課税は廃止され、一五六四年にはヒンドゥーからジズヤをとり立てることも停止された。 104頁

(・・・)彼はムスリム君主の限界をぬけ出た、いわばインドの帝国の支配者にふさわしい君主であった。彼の宮廷を中心として、インドの古典文学のペルシア語への翻訳が行われ、インド思想がムスリムによってよく吸収された。彼はサティーや幼児婚などの慣習には大きな制限を命じたが、一面では、牛の屠殺を禁じてヒンドゥー教の宗教的な慣習を尊重した。彼はそればかりか、イスラムヒンドゥー・仏教・ゾロアスター教のほか、さらにこの頃西インドに布教されはじめていたキリスト教の思想をも研究し、それぞれの宣教者を彼の宮廷内に招じ入れ、それぞれの宗教について講じさせ、あるいは議論させたが、ついに一五八二年頃になると、自ら「ディーネイラーヒー」(神聖宗教)と称する宗教思想を考え出した。 109頁

このあたりは無類に面白いところですね。アクバルはそうとう変な奴だ(笑)

ところで、アクバル帝は読み書きができなかったらしい。つまり彼の言語的入力/出力は「音」に依存してゐた。この事実は彼の宗教性となんらかの関係があるだろうか。