手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「仁斎・徂徠・宣長」吉川幸次郎

仁斎・徂徠・宣長吉川幸次郎 岩波書店 1975

伊藤仁斎荻生徂徠本居宣長についての論文を集めたもの。宣長に関する二篇は「本居宣長」で既読であったため読まなかった。いや再読したい気持ちはあったが時間がなくて読めなかった。

江戸川区の図書館に所蔵がないらしく他区から取り寄せてもらった。その場合、貸出延長ができないのである。この大きさ、この難度の本を電車や職場で読む気にならない。おのづと週末に読むことになる。貸出は二週間だから二度の週末で読んだ。疲れた。

仁斎、徂徠、宣長はもちろんのこと、彼らの思想を解説した吉川幸次郎の文章さへ現代人にはむづかしい。朝鮮やベトナムのように漢字を捨てこそしてゐないが、漢籍の素養の失われ方は凄まじいものがある。いまの日本で仁斎や徂徠が読めるひとって東大京大の大学院にちょっとゐるくらいではないだろうか。そりゃさみしいな。

ほとんど吉川幸次郎の案内でしか知らないのだけれど、わたしは仁斎も徂徠も好きですね。めっちゃ面白かった。というか儒学に限らず昔の学問、古典をひたすら読んで解釈していくという学問のあり方が好き。漢文読めたらいいのになあ。

素晴らしい時代がかつてあり、聖人が生きてゐた。しかし時代を経て聖人の道が失われた。自分が古典を正しく読み、本当の意味をここに明らかにしてやろう。仁斎も徂徠もそう考えて、猛烈に勉強して論語の注釈を書く。

最先端の学問が「論語の読み方」の提示であるという。こういう態度ってもうまったくないものだからとても新鮮だ。カントをこう読むとかハイデガーを読み直すみたいなのは思想の世界ではあるけれでも、それは様々な読みのひとつを提示してゐるのであって、人間の生き方がそこにあると信じてゐるわけではないでしょう。

下降史観は大事だ、とふと思った。正直言って、新しいテクノロジーが次々とあらわれて世界を変え、常に自己変革とキャッチアップを迫られるようなありかたにうんざりしてゐる。技術革新はもういいよと思ってる。とにかく速すぎる。少しでも遅くするために、もっと下降史観が必要だ。下降史観でよいという提案。

ようやく夏の終わりを感じる、雨の朝。以下、ノートをば。傍点は太字に変えた。

伊藤仁斎

惻隠の心

 こうした語学者としての天才的な能力、つまり言語への敏感が、彼の学説にも、大きな要素として働いていることを、看過してはならない。彼の「古義学」は孔孟の思想そのままの「古義」、すなわち原意の再獲得を目標とするが、研究は「論語」「孟子」その他儒家の古典に用いられた中国古代語の単語としての意味、その検討をもって、出発点の少なくとも一つとすること、「語孟字義」が、その総括的表現である。いま重要な一例として、彼の学説全体の出発点となった「孟子」「公孫丑」篇上、「四端」の章の、「端」の字についての議論をあげよう。

 「孟子」のその章は、かの有名な比喩、井戸にはまろうとする子供を見かけると、誰だってはっとかあいそうに思う、「怵惕惻隠の心有り」、べつに子供の両親の機嫌をとりむすぼうとしてではない、村での評判を気にしてでない、自然にそうした感情をいだく、それこそが「仁」の道徳の「端」である。といい、同様に、「羞悪の心」はにかみとにくしみは「義の端也」、「辞譲の心」えんりょは「礼の端也」、「是非の心」わきまえは「智の端也」と、孟子はいう。

 ところで、宋儒、ことに朱子によれば、「仁」「義」「礼」「智」というのは、善の原理として、人間の内奥に存在する。それは世界の原理である「理」が、人間に分与されたものであるゆえに、宋儒の「性」として、静かに人間の内奥に可能性としてひそんでいる。それが感情として外に発現するのが、「惻隠の心」であるとし、内部の原理のはしっことしての発現であるとする。そのため朱子の「孟子集注」では、「惻隠の心は仁の端也」という「孟子」の本文に、「端は緒也」と注する。つまり「端」の字のおきかえとして、はしっこ、いとぐちを意味するところの「緒」の字を用い、文章全体の意味は、「其の情の発するに因りて、性の本然、得て見る可し、猶お物の中に在りて緒の外に見ゆるごとき也」であるとする。

 ところで仁斎は、宋儒のいうような「理」が、世界の原理として存在するということを、そもそも認めない。その分与が、人間の「性」として、人間の内奥にあることをも、認めない。次章16。そうして「仁」をはじめ、人間の諸道徳、あるいは生活の法則は、人間の現実的な生活そのものの中に顕現しているとする。次章17。しからば「孟子」が、惻隠之心、仁之端也、というのも、井戸にはまろうとする子供を見て反射的にはっとする心、それが「仁」の道徳の基本であるというのであって、はしっこではない。つまり「仁の端也」の「端」は、他の字におきかえるなれば、「本也」とおきかえるべきであるとする。仁斎の「孟子古義」のその条に、「端は本也。言う惻隠羞悪辞譲是非の心は、乃ち仁義礼智の本、能く拡めて之れを充つれば、即ち、仁義礼智の徳を成す。故に之れを端と謂う也」。また宋儒を駁していう、「先儒、仁義礼智を以って性と為す。故に端を解して緒と為し、以って仁義礼智の端緒の外に見るる者と為す者は、誤れり矣」。且つ宋儒のいうように、内なるものの外への発現とすれば、そうした発言の偶然の機会をじっと待ちうけよというのか。それも「孟子」の本文と矛盾する。孟子は、「人の是の四端有るや、猶お其の四体有るがことき也」、両手両足が誰にでもあるのと同じだ、そういっているではないかと、反論を畳む。 9-10頁

学問の方法

 では学問の方法はいかにあるべきか。うまれつきの善への指向性である「性」を、真理「道」へむかって成長させること、それが方法であると、仁斎はする。

(・・・)かく学問の方法として、「拡充」を主張することにおいても、仁斎は宋儒と袂を分かつ。或いはもっとも大きく分かつ。宋儒も、「惻隠之心」その他の「四端之心」を重視することは、仁斎と同じである。しかし学問の方法は、仁斎と逆の方向を取る。宋儒によれば、「性」は「理」の分与であり、人間の内奥に、善の原型として、静かな純粋な形で存在する。それが「性」であり、「四つの端の心」は、その外部への「端(はし)」としてのあらわれにすぎない。ゆえに学問の方法は、せいぜい心を静かにして、欲望と感情を抑え、「静を主とし」、「敬を持し」て、「明鏡止水」、あるいは「虚霊不昧」な心境となり、内奥の静かで純粋な「性」への復帰にあるとする。つまり宋儒は、内なる静止へむかっての復帰を求める。それに対して仁斎は、「四端」を、四つの端(もと)、四つの基本とし、その外へむかっての成長を求める。その運動は自律的でもあり得る。かく運動を学問の方法とする「拡充」の説は、仁斎の思想の根底にある世界観と連なっている。すなわち、運動のみが存在であり、静止は存在でないとする世界観である。そうした世界観が、「拡充」成長の説を生んだというよりも、「拡充」の説の延長が、そのような世界観を生んだとも思える。 35-37頁

最上至極宇宙第一の書

 以上のべて来たことを要約すれば、仁斎にとって学問とは、人間に即した真理「道」にむかって、人間そのものを研究するこによって、人間を成長させることである。ところで研究には基準が必要である。基準となるのは、何か。「聖人」すなわち賢人たちが、「道」すなわち真理を整頓した言語である。「中庸」にいわゆる「道を修むる之れをと謂う」の「教」である。具体的には儒家の諸古典である。その中でもっともの基準となるのは何か。断然として「論語」である。孔子の言行録であるその所である。それは「最上至極宇宙第一の書」である。世界第一の書物である。何ゆえにそうか。偉大な「卑近」の書であるからである。内容はすべて日常を離れない。平凡無奇である。もっとも平凡無奇なるが故に、もっとも偉大の書である。その文章は完璧であって、「其の言至正至当、徹上徹下、一字を増やすときは即ち余り有り、一字を減ずるときは即ち足らず」であり、「道此こに至りて尽き、学此こに至りて極まる」であると、仁斎は、「論語古義」巻頭の「綱領」にいう。 50頁

荻生徂徠

政治は道徳に先行する

 すべての存在は、運動を属性とする。運動を属性とする故に、時間的にも空間的にも、同一の存在はあり得ない。無限に分裂した個である。いかにも個はそれぞれに運動するが、いかに運動するとも同一の存在となることはできない。人間も自然も「活物」だからである。人間はそれぞれの顔がちがうようにちがった個性を、それぞれに運動させ成長させつつも、あくまで保持する。米はあくまでも米であり、豆はあくまでも豆である。人間はこの無限の分裂のすべてを認識することはできない。奇蹟あるいは神秘の出現は、稀にではあるけれども、人間の有限を強調する。

 なぜかく人間には知り得ない部分を含みつつ、存在は運動するのか。「天」の意思としてそうなるのである。人間が知りつくし得ない形で存在の運動を生む「天」の、霊妙不可思議さを、人間は尊敬しなければならない。「天」への尊敬こそ、人間の思考と実践の基礎である。「天」の意思は、「天命」と呼ばれる。

 しからば人間の認識はいかにあるべきか。存在を個としてでなく集合体としてとらえるとき、集合体としてもつ方向が、大まかに把握される。かく存在が集合体としてもつ方向を、彼は「大」と呼ぶ。「大」の中の「小」は、無限に分裂している。「小」への認識をいくら積み重ねても、「大」には達しない。「大」による認識こそ必要である。

 認識の対象が大であるべきことは、存在への対処の方法もまた、「大」を対象とする「大」きな方法であるべきことである。それは政治である。かく「大」を対象とする政治の方法として与えられているのが、中国の古代に出現した「先王の道」である。またその記録である「六経」である。「先王の道」とは何か。中国古代の天才的な統治者七人、具体的には、堯、舜、夏王朝創始者である禹、殷王朝の創始者である湯、周王朝創始者である文王、武王、周公、以上の七人の「先王」によって、人為的に設定された政治の方法である。「道」とはそれを呼ぶ語である。(・・・)

 七人の「先王」が「聖人」として設定した「道」は、あくまで政治の方法である。道徳の方法ではない。「仁」善意、「智」知性、「孝」両親への善意、「悌」兄弟への善意、「中庸」節度、等の諸道徳を総称する語が「徳」であるが、あくまでも重要なのは「道」であり、「徳」は「道」に対して重要さをゆずる。つまり政治は道徳に先行する。個人すなわち「小」の善あるいは幸福をはかっても、その集積が、「大」すなわち集団の善あるいは幸福には到達しないからである。 77-78頁

 以上のような形での政治重視の儒学説は「答問書」で彼自信、「数百年来の儒者の誤候処」というごとく、空前の説である。儒学はがんらい政治に関心をもつ哲学ではあるけれども、彼とは逆に、道徳をもって政治に先行させるのが、宋儒のみならず、中国でも日本でも普通である。 188頁

古代の事実の一般的にもつ含蓄

(・・・)古代の事実は、人間の事実の原形であり、後代の諸事実は、原形である古代の事実の中に含蓄されていたものの変化であり分裂であるにすぎない。いいかえれば、後代の諸事実は、新しいように見えるものも、古代の事実を研究すれば、みなその中に未分裂のものとして含蓄されているとするのである。「況や道芸、事物、言語、皆な上古に昉(はじ)まり、次第に潤色し、次第に破壊し」、つまりあるいは意識的にプラスされマイナスされ、あるいは無意識的に、「或るいは分かれ或るいは合し」、かくて「或るいは盛んに或るいは衰えつつ、沿革し展転す」、前のものをあるいは沿(おそ)い、あるいか革(あらた)めつつ、ぐるぐると展開するのであるが、すべては「上古に昉まる」。だから学問の方法は、まず古代の事実をしっかり把握してこそ、後代の事実がわかるのであり、文章の勉強もまた、「古文辞」からはじめねばならぬ。 135-136頁

「敬天」の説に対する神道の影響

 「敬天」の説とは、私の「学案」が一八九頁以下に述べるものであって、要約すれば、その説は、人間の現実の複雑さへの敏感から発足している。人間の個性は、無限に分裂する。孟子や宋儒のいうように、善への方向を斉一にはもたない。且つそれぞれの個性は、宋儒がいうように、修養によって「気質」を「変化させることはない」。いつまでもその本来を保持する。人間も万物も「活物」だから、成長はある。米はよりよい米に、豆はよりよい豆になることはあっても、米が豆になり、豆が米になることはない。かくて個性と個性の接触による人間の生活は、無限の変化を示す。人間ばかりではない。自然さえも必ずしも法則的でない。奇蹟を示す。要するに現実は、人間の知恵では追跡しおおせない複雑さをもつ。宋儒が「格物致知」の説をとなえ、万事は人間の知恵によって究明されるとするのは、誤謬である。現実の複雑さの源泉としては、人間以上の存在が考えられねばならない。それが「天」である。われわれの上方に、蒼蒼然、冥冥乎としてある天球である。その意思の発動として、すべての現実はある。「天」の意思は、人間には不可知である。ゆえにその発動である人間の現実は複雑なのであり、人間の知恵では蔽い得ない。「天」の意思の発動は「天命」と呼ばれる。人間の知恵と人間の努力が不必要というのではない。すべては「天」の意思の発動、「天命」であることを認識した上での努力こそ必要である。「天命を知ら」ねばならない。そうして「天」への尊敬を、すべての行動の根底としなければならない。(・・・)

 以上のような敬天、敬鬼の説、つまり超自然の存在を容認し、それへの敬虔を強調する説は、宋儒と仁斎の無神論への反撥を、成立の契機としようが、日本の神道説が成立にあずかっていると認められるのは、中国古代の「先王」の「聖人」たち、すなわち彼によれば堯、舜、夏王朝創業者の禹、殷王朝創業者の湯、周王朝創業者の文王、武王、周公、以上計七人の天才の君主が、永遠に妥当な政治の技術として、「道」を作為したのも、その根底にあるのは「天」への敬虔であり、その具体的表現としての祭政一致であった、それは神道家のいう日本古代の様相と、合致するとの表白が、彼にあることである。 244-246頁

われわれが脱出を欲するもの

(・・・)日本思想史の上における彼が、近代の先駆として回顧されることは、重要な事実である。実証的な古典学の先駆者として回顧されるばかりではない。朱子学、少なくとも日本の朱子学が、無造作にむすびつけて来た「天」と「人」つまり自然と人間を分離したことは、丸山真男氏の「日本政治史研究」が、彼の大きな功績として指摘するごとくである。私自身は、完全善の社会は、堯舜の世にも実在しなかったと、宣長に先だって喝破したのを、最も高く買う。「学案」一三六頁。仁斎にはじまる欲望の肯定は、彼に至って大きく地歩をすすめ、感性の尊重は、宣長をひらく。(・・・)

 彼の「天命」の説は、階級の世襲的な固定を弁護するための論理として成立したと疑われる面をもつ。「論語」全巻最後の章は、「命を知らざれば以って君子と為る無き也」であるのに対して、彼の「徴」は、「命とは道の本也。天命を受けて天子と為り公卿と為り士大夫と為る」というのをもって、議論をはじめる。地位を世襲する家の当主として生まれるのは、超自然の意思による運命なのである。本人はそれを自覚し、支配層としての義務に忠実であれというとともに、それは人間の議論をゆるさない問題とする。

 現在われわれの態度となっているものの幾つかが、既に彼にあるのを、私は尊敬するとともに、われわれが脱出を欲するもののいくつかにも、彼が参与しているのを否定しがたい。厳格な儒学の一つとされる「水戸学」が、彼に発源するとされるのは、偶然ではない。 280-281頁