手探り、手作り🐘

「ミッション・インポッシブル」新作の予告を見たのですが、かなりいいですね✨

「理不尽な進化 増補新版」吉川博満

理不尽な進化 増補新版」吉川博満 2021 ちくま文庫

凄い本だった。章が進むごとにどんどん面白くなってゆく。特にドーキンスとグールドの論争にはグっときた。絶対に読まねば、と思うのはドーキンスの方だけれど、親近感をもつのはグールドのほうかな。スケールは比べようもないほど小さいけれど、ぼくもまた、歴史の偶発性に固執して、「ほかでもありえた」可能性のことを考えてしまうタイプだから。

以下、ノートをば。

 アリストテレス、聖書からラマルクまで、ダーウィン以前の進化論は、ある意味で人間の自然な思考習慣ーー認知バイアスーーに合致した考え方をしてきた。その自然な思考習慣とは目的論的思考である。キリンは高所の葉っぱを食べるために首を長くしたとか、神が自身のため人間のために生き物を創造したという考え方だ。

 目的論的思考は、それ自体は日々の暮らしに役立つ、というかそれなくしては生きていけないくらい重要な思考習慣だ。これがなければ朝食のためにパンを焼くこともできなくなる。つまり私たちの行為の多くが宙に浮いてしまうことになる。

 専門家でさえ便宜のために目的論的思考の助けを借りる。たとえば、眼はものを見るために、脚は移動するために、肺は酸素を取り込んで二酸化炭素を排出するために発達した、等々(そもそも「機能」という概念自体が目的論的である)。

 しかし、厳密にいえば逆なのだ。それは、ものを見るのに適した形質をもった個体が生き残り子孫を残した結果なのであり、移動するのに適した形質をもった個体が生き残り子孫を残した結果なのであり、以下同様である。ダーウィニズムは、三浦俊彦の言い方を借りていえば、目的論的にしか理解できない事象を結果論的に説明する方法を発明したのである。エリオット・ソーバーはこれを「目的論の自然化」と呼んでいる(Sober 2000=2009, chap. 3-7)。

 ここで大事なことは、目的論的にしか理解できない事象を結果論的に説明する革命的理論を手にしたとしてもなお、私たちがその事象を目的論的にしか理解できないという事態は変わらないということである。目的論的思考はそれだけ強力な認知バイアスであり、自然淘汰説は人間には習得しづらい考え方というより、そもそも人間の考え方ではない。この点において自然淘汰説はじつのところ量子力学相対性理論と同じくらい人間には理解しづらい理論装置だ。ふだんは弱肉強食とか優勝劣敗といった人間的なわかりやすい衣にくるまれているために、そのことがわかりにくくなっているだけなのである。第二章において「自然淘汰説は、学問の世界から離れて日常的な世界像へと入っていく瞬間、別人に変わってしまう」と論じたことを思いだしてほしい。 361-362頁

 グールドの歴史記述のスタイル、つまりよく知られているはずの物事の知られざる側面をあらわにし、それまで軽視されてきた事象を大きく扱い、虐げられ忘れ去られた人物や生物にスポットライトを当てるスタイルは、二分法の二文法の二分法によって消極的な部分から積極的な部分をとりだそうとする歴史の天使の仕事を遂行しようとするものだ。天使の仕事といっても、べつにお菓子のように甘くフワフワした夢見がちなものではない。それはもちろん「あらゆる人間的要素から遠ざかろうとする恒常的な努力」とともに、ダーウィンが開発した歴史科学の方法論に従う。しかし同時にそれは、救済を待つ過去の断片を拾い集めて私たちの眼前にもたらすという人間的、あまりに人間的な歴史へのコミットメントでもあるのである。グールドの仕事がもっとも輝くのはこの点においてではないかと私は思う。 391-392頁

 適応主義、そして社会生物学をめぐる論争があのように激しいものになったのは、それが歴史認識や政治や宗教といった「人間的、あまりに人間的」な領域へのコミットメントと切り離しがたいトピックであるからだ。もちろん揉め事はないに越したことはない。しかし、私たち人間はいまだそうしたものから自由になったことはおそらく一度もないのである。

(・・・)

 だからこそ、人間にたいする遠心的/求心的な往復運動、あるいは人間からの離脱と帰還の往復運動が必要なのだが、こうした「人文的」な問題のやっかいなところは、誰もがそれをよくわかっていると思い込み、見くびっているところにある。これは「科学リテラシー」とか「科学コミュニケーション」と呼ばれるような、より広い文脈で考える必要があるかもしれない。私たちの多くは、科学的知識を仕入れることそのものは比較的に得意としているが、それらと自分の足元の生活との関連を考えること、つまり日々の行動のために統計データを読み解いたりリスクを計算したりすることについては極端に不得手なようである(大震災と原子力発電所自己、そしてパンデミック以降、それはいっそう明らかになった)。

 ここには、量子力学相対性理論を理解するのとは別種のむずかしさがある。それは政治や社会問題と同じ種類のむずかしさであり、遠心化作用と求心化作用のあいだの折衝のむずかしさである。

 物理学者の菊池誠は、原発問題やニセ科学について発信しながら、「頭で理解する」ことと「気持ちで納得する」ことのちがいについて、たびたび注意を喚起している。そして、あるデータや主張を前にして、自分が「理解しているが、納得はできていない」という状態にあるのではないかと疑ってみるのは、よい練習になるのではないかと言う(菊池ほか 2011: 62-3)。これが人間からの離脱と帰還のレッスンである。もし理屈と気持ちのあいだに折り合いをつけがたく感じるとしたら、それはまさにプライスが直面したような個人的事情の問題であろう。むずかしいことではあるが、問いの往復運動によってなんとか折り合いをつける必要がある。あるいは、少なくとも折り合いをつけるのが難しいということを認識する必要がある。 407-408頁