コロナはただの風邪であるから恐るるに足りないと言う人がある。
餅による窒息より死者数が少ないものをマスコミに煽られてワーワー不安がってゐるのは「コロナ脳」なんだと。もっと極端に、いや新型コロナウイルスは存在しない、メディアが捏造したものだと言う人もある。
ぼくは新型コロナウイルスについていかなる専門的知見も有さないので、彼らの意見を絶対に間違いであると断じることはできないのだけれど、ちょっと極端ではないかしら。
彼らはなぜ「多くの人が予防を徹底して外出自粛を行い、医療現場が必死に踏ん張った結果としてこの程度の死者数に収まってゐること」や、「4月には地域によって医療崩壊の寸前までいき、そして今の第二波もこのまま感染拡大が続けばそうなる可能性があること」を完全に無視できるのだろう。
この種の極端な意見を口にする人の心理は、陰謀論や歴史修正主義を信じる人に近いように思う。
彼らはみな既存メディアを軽蔑してゐる。「真実を報道しない偏向メディア」を信用せず、「イデオロギーに惑わされず、ファクトに基づいて判断する」ために、ネットでいろいろ検索して「テレビが言わないナントカ」や「日本人だけが知らないカントカ」を見つけだす。そうして「マスゴミ」に洗脳されてゐる人びとの知らない真実を見つけだしたと考える。
彼らの世界観のなかではちゃんと「証拠」があって、それに基づいて世間に流布する通説を「論破」してゐるので、やっぱりそれが「真実」なんだ。
「自分こそが目覚めた人間なのだ(みんな騙されてる)」という選民意識が根本にあるようだ。だから陰謀論はスピリチュアルな人とたいへん相性がいい。これは、自分は凡庸であるはずがないという自意識からくるある種のマッチョイズムだと思う。マッチョイズムは弱さの裏返しだ。
自分の平凡さに耐えられない弱さ、とでも言おうか。
自分は何者かである、人より抜きん出たところがある、そう思いたい気持ちは誰にでもあると思う。もちろんぼくにもある。ぼくはもうすぐ34歳になるのだけれど、まだある。
自分の凡庸さを受け入れることは勇気のいることだ。しかし、ぼくはそこに人間の幸福というものがあるような気がしてゐる。
キム・ヨナさんの言葉を思い出す。
昨年のインタビューで、引退後の日常について彼女はこう語ってゐた。(こちら)
「特別なことはない。以前、観たいと思っていた映画を合間に観ている。とても楽しい瞬間ではないが、なにしろそのような些細なこともせず生きてきたので、そんな瞬間が幸せだ」
「本当に普通の人間だと思い、どちらか一方に偏ることがないように努力しバランスの取れた生活をしてみようと思う」
なんでもない言葉だけれど、ぼくはこれを叡智の言葉として受け取った。「本当に普通の人間だと思い」というところがすごくいい。原語がどのようなニュアンスかは分からないけれど、彼女の実感がよく出てゐるように思う。自然で平気な態度だ。
ヨナさんはフィギュアスケートのレジェントであるから、客観的には「普通の人間」ではない。けれど世間の評価は問題ではない。漱石のいう「自己本位」というやつだと思う。それは落ち着きであり、平穏だ。こういう姿勢を学びたい。
ヨナさんの魅力はスケートだけではない。誠実な生きかたと自然な人格的成熟がすてきなんだ。