「幼年期の終わり」アーサー・C・クラーク 1952
ぼくは宇宙人とか、地球外生命体とか、群体知能とか、人類より高次の存在とか、その種のものを全て信じてゐるので、この小説で書かれてあることがそのまま起ったとしても、けっこう普通に受け入れてしまうと思う。見たいですよ、宇宙艦隊。
「信じてゐる」といってもべつに思い詰めた意味ではなく、人間が理解できることはたかがしれてゐるのだから、いま見えてゐる世界には別の姿があるかもしれないし、遠い宇宙には別の文明くらいあってもおかしくないわな、とぼんやり思ってゐるだけだ。
ピラミッドを作ったのが巨大な宇宙人だったら面白い、そういうこともあるかもな、くらいのノリ。
最後まで読むと、印象に残ったのは人類の運命ではなく、オーバーロード達の哀愁のほうだった。人類が「幼年期」を終えるまでの「保護者」として君臨したオーバーロードだけれど、彼等はオーバーマインドに「一体化」できないことになってゐる。
カレランがひとり暗闇を凝視するラストには深いあわれみを感じた。この小説の世界では、大きく種として捉えると、救われないのは人類ではなくオーバーロードのほうなのだ。
(・・・)それは彼自身の種族に向けられた哀しみ、決して打ち倒すことのできない力によって偉大なものの一員になることを永遠に阻まれた、彼ら自身に向けられた哀しみだった。 421頁
オーバーマインドからすればオーバーロードの尊厳も、人類の魂もクソどうでもいいカスみたいなものなんだろう。そう考えると存在を高次/低次に分類する思考様式や進化論的発想そのものが非常に危険であることに思い至る。
しかし危険であっても、人間の自我は自己を超えるものに寄りかからないと成立しないので、そこから逃れることはできない。だから宗教の力が弱まっても、人間はそれに変わるもの(国家、民族、年収、学歴、知名度、いいね数…)を信仰してゐるのだし、権威主義がこれだけ流行するのだろう。
やはり人間は愚かすぎるのでオーバーマインドと一体化したほ、、、いかんいかん💦