手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

瓢箪(ヒョウタン)

昔、敬愛する職場の先輩が瓢箪をくれた。それがあんまり美しいので大事にかざってある。彼は自宅の庭で瓢箪をそだて、とり、かわかし、みがき、ぼくにくれたのである。

「林さん、これきれいでしょう。差し上げます」と。

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内直くして外曲がる。荘子

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天下は神器なり。為すべからず。老子

大きさの異なる二つの球が上下に並び、絶妙な均衡をみいだして、素直に立ってゐる。なにやら宇宙的な調和を感じさせるので、諸橋轍次の「中国古典名言辞典」を引っ張り出してきて、荘子老子のキャプションをつけてみた。

内直(なお)くして外曲がる。は、

「心は道理にのっとり、まっすぐに屈することなく、外面は世間に合わせておだやかに、うやうやしい態度をとる。」

天下は神器なり。為すべからず。は、

「天下は一つの不可思議の器であって、人間の考えでことをなそうとしても、結局はどうすることもできないものである。」

という意味だそうだ。ぴったりぢゃないか。この霊妙な瓢箪をじーっと眺めてゐると、こころが落ち着いてきて、自分も宇宙の大きな秩序の一部なんだと感じられる気がする。

もう一つ、ぼくにとって瓢箪は「尊いもの」の象徴でもある。それは高校生のときに読んだ志賀直哉の「清兵衛と瓢箪」という掌編を思い出すからだ。

Wikipedia からあらすぢを引用する。(こちら

 清兵衛は12歳の小学生。瓢箪に熱中していて、しきりに瓢箪を磨いては、飽きずに眺めている。しかし父は「子どものくせに」と快く思っていなかった。 清兵衛は古瓢に興味はなく平凡なものばかり集めるので、父を訪ねてきた客はもっと奇抜な瓢箪を集めろと言い、馬琴の瓢箪をほめる。

 それに対し清兵衛はあの瓢箪はおもしろくないと反論し、父を怒らせてしまう。 ある日、いつもは見慣れない場所に屋台が出され、瓢箪が20ほど売られているのを見つける。その中に震えるほどの見事な瓢箪を発見した清兵衛は、それを10銭(現代価格で200円)で購入する。

 それから清兵衛はその瓢箪に夢中になり、学校に持ち込んで修身の授業中にまで磨き続け、とうとう担任の教員に見つかってしまう。教員は瓢箪を取りあげ、清兵衛の家に乗り込んでまで説教する。 父は激怒し、清兵衛を殴りつけた挙句、瓢箪を一つ残らず玄翁で割ってしまう。

 一方、取り上げられた瓢箪は教員から小使いの手に移り、小使いは骨董屋に持ち込む。 すると骨董屋は初め5円の値をつけ、最終的にその瓢箪は小使いの給与四ヶ月分にあたる50円で買い取られた。小使いはそれを誰にも口外しなかったが、骨董屋がその瓢箪をとある豪家に600円(現代価格で120万円)で売ったことを知る者は誰もいない。

 清兵衛はその後、絵を描くことに熱中する。しかし父は、絵にも小言を言い出すのだった。

親も学校の先生も理解できなかった清兵衛の瓢箪が、実はすごい高値のつくものだったというオチである。瓢箪づくりを諦めた清兵衛は、その後、絵を描くようになった。そして父はそれにも小言を言い出してゐるらしいから、またつぶされてしまうかもしれない。

清兵衛がこれからどうなるかはわからないのだけれど、彼には自分が熱中してゐるものの価値、あるいは夢中になることそのものの価値を信じてゐてほしいと思う。運命にも世間の称讃にも左右されない尊いものがある。

しばしばそれは、人に評価されなかったり、つぶされそうになってはじめて気づく。困難があってはじめて自分の長所と価値について自覚するのだ。たぶん本当の自信というのはそういうふうにしてつくられる。