手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「中国思想」宇野哲人

中国思想宇野哲人 講談社学術文庫 1980

君たる人は天の子である。万民は庶子である。

天の信仰は昔から現在まで政治・道徳・宗教等の根本思想になっている。それでまず天の意味を言わねばならぬ。天はただ有形の青空と見ることもあるが、しかしあの高い青空の上に神様がおる。その神様をあるいは皇天とも、上帝とも、また続けて皇天上帝とも言う。これを体用に分けていうと、天というときは体をいい、帝というときは用をいう。換言すれば天その物をいうときは天といい、万物を主宰するというときは帝という。天というときは人格の観念がはっきりせぬことがあるが、帝というときは人格の観念がはっきりしている。 31-32頁

天は人間をして各々その生を遂げしめようというには、何か適当な方法がなければならぬ。それで天は万民のなかで最も優れている聡明叡智の人を見出して、これを特別に抜擢して、万民の君として、万民の師として天に代って万民を治めさせるのである。そこで君臣という関係が起る。すなわち君というものは天によって任命されたのである。 32頁

しかし支那はしばしば革命があったので、君臣の関係はとうとう絶対的になることができず、古来の天人の関係についての考えが、始終支那民族の間に在って、「天下は一人の天下に非ず」といい、あるいは「王公将相何ぞ種あらんや」というのである。この君臣の関係についての思想は、日本と非常な相違があることは、皇室に対する大和民族の忠誠を、くだくだしく述べなくてもすぐに分かるであろう。 34-35頁

「仁」に到達する道、博文約礼。

しからば仁の到達するの道は何か。外ではない、すなわち博文約礼である。「博く文を学びて、これを約するに礼をもってす」という言は、論語に二度までも見えている。ただ博く文を学ぶといっても、いろいろのものを研究するばかりでは、雑学に流れ、物知りという風になってしまう。それを礼で十分締りをつけなければならぬ。ただ礼ばかり重くみると、あるいは虚礼に流れ、あるいは窮屈になってしまう。やはり博く文を学ばなければならぬ。 66-67頁

中国の四つの思想。

支那において現れた思想を大別すると、儒教的精神・道家的精神・墨子的精神・楊朱的精神の四つとなるのである。これはみなそれぞれ根拠があり、理由があって、支那国民の間に起ったので、現代においても、なお生命を有しているのである。 307頁

四つの思想の関係性。

いったい支那人は、何か基づくところがあると言わなければ信用を博せぬから、儒教では堯舜を祖述し、儒教と拮抗した墨子は禹を祖述し、老子の一派はモット飛び離れて古い黄帝に基づくといったに違いないと思う。 120頁

墨子の説は楊子と正反対で、墨子利他主義社会主義を唱え、楊子は利己主義、個人主義を唱えている。そうして楊子は老子の流れを汲み、墨子はむしろ孔子に近い。ただ儒家は周制をとるから、文質彬々たる礼楽の政を重んじ、墨子は大禹により、礼楽を軽んじ、勤倹を主としている。 177頁