手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「中国哲学」宇野哲人

中国哲学宇野哲人 講談社学術文庫 1992

周の衰微と諸子百家の登場

周の権力が強かった時代には新奇の言論をなすものを罰する「造言の刑」が行われてゐた。しかし衰微につれてこれがなくなり、諸子百家が自由勝手に自説を発表するようになった。

また強国の弱体化により群雄割拠の時代に入り、列強が対峙して始終戦争が絶えない世となった。軍事費のために租税が重なり、人民は塗炭の苦を強いられてゐた。

 かかる時代に於いては、苟も志ある人は、いかにもして此の人民の困苦を救いたいと考えるであろう。又有為の志を抱きて、覇気満々たる人は、風雲に再会して、自分の手腕を振るおうということを考えるであろう。即ち周室の喪乱は、ここに二様の思想を惹起するに至った。

 一は天下の喪乱に乗じて大いに自分の手腕を振い、抱負を実行しようという英雄豪傑の士である。又一は天下の喪乱を哀み、生民塗炭の苦を救おうという志士仁人である。前者は主として自分の栄達を以て目的とし、後者は主として天下万民を救済するを以て目的とするものである。

 英雄豪傑は、当時の諸侯を助けて、大に其の志す所の帝国主義を遂行せしめんとし、志士仁人は、当時の諸侯を説いて、或は平和主義、人道主義の立場をとり、国利民福を増進せしめんとして居る。 25-26頁 改行を追加した

乱世、不安、迷信

 春秋から戦国にかけて、思想動揺して生活不安定なりし結果、迷信は可なり盛んであった。孔子の如きは怪力乱神を語らずといって、頻りに迷信の打破を努められたけれども、到底孔子の力の及ぶことではない。『左伝』や、『墨子』や、『荀子』などに見ゆる記事だけでも、いかに迷信の盛んなりしかが分かると思う。神仙不死の術を学ぶ人が、戦国の頃から起ったのは、戦国の際、人の生命が非常に不安固であった為めであろう。 45-46頁

宋代の儒学

宋代に儒学が勃興したがこの儒学は孔孟時代の原始儒教とは趣を異とするものである。なんとなれば、六朝から唐にかけて仏教が全盛を極めたという前史があるからだ。

仏教は原始儒教にくらべてはるかに精緻な論理をもってゐた。だから儒学はこれに対抗するために、第一に仏教の教理を取り入れ、第二に仏教の説くところはもともと儒学にもあったものだという物語を創造したのである。

五経(易・書・詩・礼・春秋)」から「四書」へ、「天」から「理」へ。

 宋儒が仏教に対抗せんとして、儒教の経典に、其の根拠を求めた結果は、之を『周易』、『礼記』、『論語』及び『孟子』に得た。『易』に見ゆる性命の説、「窮理尽性以て命に至る」とか、「成性存存、道義之門」とか、又は太極説とか、『礼記』に見ゆる天理人欲とか、特に『中庸』及び『大学』の如きは、『論語』及び『孟子』と共に、儒教を以て仏教に対抗する上に於て、大に心強く覚えたに違いない。

 『中庸』に見ゆる哲理は仏教に比して何等の遜色がなく、『大学』に見ゆる治国平天下の論は、儒教の特色として、仏教と其の撰を異にすることを高調する上に於て、極めて適当であったと思われる。

 夫でこそ二程子から朱子に至っては、『礼記』中の『大学』『中庸』の二篇を、『論語』『孟子』と併称して、四書というに至ったのである。因に四書の呼び方は、『大学』・『論語』・『孟子』・『中庸』というのが正当の順序である。 82頁  改行を追加した