手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「インド文明の曙ーヴェーダとウパニシャッドー」辻直四郎

インド文明の曙ーヴェーダとウパニシャッドー」辻直四郎 1967 岩波新書

面白かった。インド思想の勉強を楽しいと感じられるまでにけっこう時間がかかった。というのは、登場してくる神や概念がたくさんで、こんがらがって、よく分らないところがあるからだ。

ブラフマンとヴィシュヌとシヴァが究極的には同じであるとか、クリシュナはヴィシュヌの化身であり、そのヴィシュヌはブラフマンと一体で宇宙の主催者であるとか、シヴァ派とヴィシュヌ派でかなり違うとか、何が何やら、という感じ。キリスト教イスラーム教のように、これぞ、という聖典も存在しない。「バガヴァッド・ギーター」がいちおう汎インド的な聖典とされてゐるようだけれど、聖書やコーランとはずいぶん位置づけが異なるようだ。

「論理の一貫を求める者は失望する」と辻直四郎は書いてゐる。そのとおりだ。それを求めるから分らなかったんだ。しかし論理が一貫してゐないほうが自然で、イスラーム教のようにばっちりクリアな世界観を持ってゐるほうがむしろ特殊なのかもしれない。

論理が一貫しないのは、要するに、インドにおいては時間が直線的に流れてゐないからだ。いや、違うか。時間が多層的に流れてゐると言ったほうがいいかも知れない。ようやくこの感覚が分ってきた。この平凡なインドの常識を理解するのにこれだけ時間がかかったということは、ぼくが直線的時間感覚に深く毒されてゐたということなんだろう。

歴史が経過するに従って、とうぜん新しいものが生まれてくるし、異民族の侵入があり、支配されることもある。異文化を吸収し、古いものと新しいものが融合する。しかし、それで昔からあったものが消えるわけではない。ここがポイントで、新しいものが出て来ても、古いものは古いものとして、そのまま生きてゐる。少なくとも、その傾向が強いように思える。

もちろん文化とはどこでも時間の蓄積なのだろうけれど、インドの場合はとても極端という感じがする。どんどん積み重なっていって、そこで整合性をとることには関心がなさそうだ(あるいは秩序で覆うことができないほどに雑多で多様とも)。でもその整合性というのが怪しいので、20世紀後半の日本に生れ育ったぼくには整合性がないように見えるだけで、インド世界ではそれでいいんだろう。

ぼくはいまインド世界に対してこのような感想を持ってゐるけれども、それもすぐに更新されるに違いない。本を読むたびに感化されるし、次インドに行けばまた別の感想を持つだろう。それでよい。一貫性がないのが人の本性だ。

この本はとても勉強になった。めっちゃいい本だ。ヴェーダ文献の翻訳がたくさん載ってゐるのがありがたい。古代インドの来世観および業による輪廻説の成立など、ことに興味深く読んだ。

 要するにリグ・ヴェーダからブラーフマナ文献にいたる来世観は、比較的に楽観にかたむいていた。地上においては財宝・子孫・長寿にめぐまれ、祭祀・布施・慈善の徳行を積み、死後は天上の楽園で神々・祖霊とまじわることを願い、悪行により地獄におちることを恐れていた。しかし、現世までを舞台とする輪廻の教義、その原動力たる業の教理の完成は、ウパニシャッドを待たねばならなかった。 157頁

 梵我の発見と並んで、ウパニシャッドで始めて明瞭に認められるにいたった教義に、業による輪廻がある、善悪の行為の果報に従って、神・人間から禽獣虫類にいたるまで、さまざまな形態を取りつつ生まれ変わり、生死の苦悩を繰り返すと説かれる。それ以後この教義は、インドの宗教・哲学・倫理の根幹となり、仏教もジャイナ教も、これを当然なこととして採用した。

 インドにおいては最古の時代から、われわれの生命が現世の一生に限られるとは考えていなかった。しかし来世観には変遷があり、業による輪廻説が一般化する以前、或いはこれと並行して、一種の通俗説が行われていた。子を父の再生とみなす思想で、父子相続の緊密さを示したものである。真正の輪廻説のかたわらに、或いはこれと折衷されて、後の文献にも残っている。しかし輪廻説の起源は単純ではなく、学者の見解も一定していない。とにかく、これが固定した教理としてインド宗教諸派に受容されるまでには、種々な曲折があったに違いない。 169-170頁