手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

たけくらべ

5月22日、土曜日、空には厚い雲。すごい湿気だけれど気温がさほど高くないので不快感はそれほどでもない。五反田まで歩き、山手線で日暮里まで行き、常磐線に乗り換えて南千住で下車。円通寺を目指して、南千住仲通りを歩く。

看板を見るとたくさんの商店があるはずだが、ほとんど閉ってゐる。なんとも淋しい感じだ。豆腐屋のおっちゃんに、これは緊急事態宣言の影響かと聞いてみる。いや、関係ない、ぜんぶ開いてゐてこれなんだ、豆腐屋と魚屋くらいしかないんだ。そうなのか。さびれた商店街というのは実に淋しいものだ。しかし人口減少社会とは要するに、いろんな街がさびれていくということなんだろう。

南千住仲通りを10分ばかり進むと日光街道に突き当る。交番に入って円通寺の場所を聞く。すぐそこである。お目当ては上野寛永寺の黒門と彰義隊の墓。上野寛永寺の黒門は明治40年(1907)、円通寺に移設されたのだ。入ると、いかにも無造作に、黒門が置かれてゐる。彰義隊の墓もきちんと手入れされてゐるようには見えない。全体として、大切に扱われてゐないという印象を受けた。

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黒門、上野戦争銃撃戦の弾痕が多数。

日光街道を南へ下り、常磐線の高架を抜けると、左手に浄閑寺が見える。浄閑寺は別名投込寺、なぜ投げ込みかというに、1855年の安政の大地震の際、吉原の遊女達が投げ込み同然に葬られたからである。一説によればその数二万人。彼女たちの供養のために新吉原総霊塔が建立された。

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新吉原総霊塔

参拝客が絶えないようで、花と香が供えられてゐた。新吉原総霊塔の向い側に、永井荷風の文学碑がある。曰く:

今の世のわかき人々

われにな問ひそ今の世と

また來る時代の藝術を。

われは明治の兒ならずや。

その文化歷史となりて葬られし時

わが靑春の夢もまた消えにけり。

團菊はしをれて櫻癡は散りにき。

一葉落ちて紅葉は枯れ 綠雨の聲も亦絕えたりき。

圓朝も去れり紫蝶も去れり。

わが感激の泉とくに枯れたり。

われは明治の兒なりけり。

或年大地俄にゆらめき

火は都を燬きぬ 。

柳村先生既になく

鴎外漁史も亦姿をかくし

江戶文化の名殘烟となりぬ。

明治の文化また灰となりぬ。

この世のわかき人々

われにな語りそ今の世と

また來む時代の藝術を。

くもりし眼鏡ふくとても

われ今何をか見得べき。

われは明治の兒ならずや。

去りし明治の世の兒ならずや。

「一葉落ちて」という、その樋口一葉の「たけくらべ」を読みにきたのだ。一葉の文章は「今の世」から隔たりすぎてゐてたいへんむづかしい。少なくとも、ぼくには凄くむづかしい。だから街を歩いて、時間を遡る。彰義隊の墓を拝み、遊女慰霊塔を見て、荷風の碑文を読み、いい具合に前近代的な気分になってきた。これなら読めそうだ。

読めた。めっちゃいい。今でいうキュンキュンするというやつで、少年がちょっと年上の少女を慕ってゐるさまとか、少女がある男の子を好きなんだけれど好きがゆえに邪険に扱ってしまうのとかが、擬古文で書かれてゐる。

会話と地の文が分離せずに、ひとつづきで書かれてゐて、うっかりすると誰が誰に言ったのか分らなくなって混乱する。セリフは「」で括られてをらず、そのときAはこう言った、みたいな地の文もない。だから「個」が浮かび上がってこずに、ただ全体の調子を感じるのみ。その調子が、とてもとても美しい。こんなにいいとは。幸せな気持ち。

朝冷(あさすず)はいつしか過ぎて日かげの暑くなるに、正太さんまた晩によ、私の寮へも遊びにお出でな、燈籠ながして、お魚追ひましよ、池の橋が直つたればこわい事は無いと言ひ捨てに立出る美登利の姿、正太うれしげに見送つて美くしと思ひぬ。

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千束稲荷。「たけくらべ」ゆかりの神社。

浄閑寺を出て、国際通りを歩いて吉原に行ってみた。ソープランドがあるだけだ。日本一の風俗街と聞くけれど、人通りは少ない、そのうち消えちまうんぢゃないか。ぼくが苦手なだけかもしれないけれど、なんともどんよりとした空気だ。客引きのゴツイおっちゃんも怖いし、日も暮れかかってきたので、そそくさと吉原を後にする。

国際通りを南に進み、かっぱ橋本通りまで来たら西に折れて、上野駅まで歩き、山手線で五反田に帰る。次はかっぱ橋道具街通りを歩こうかしら、どうしよか。