手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

運命

5月5日、水曜日、大型連休最終日、毎日けっこう歩いてゐるのでいいかげん疲れてきたけれど、まだまだ歩く。五反田まで歩き、山手線で目白まで行く。目白通りを歩いて明治通りまで来たら左に折れ、少し進むと右手に鬼子母神が見える。参道も境内も気持がいい、地元の子供が遊びに来てゐるのもよい。

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鬼子母神。子育て・安産の神として広く信仰されてゐるとのこと。

境内に団子屋があったので、団子と茶をいただきながら幸田露伴の「運命」を読みはじめる。明王朝、建文帝と永楽帝の争いを描いた中編小説だ。主題はタイトルの通りに運命、これを作品内で「数(すう)」と呼んでゐる。

 世おのづから数といふもの有りや。有りといへば有るが如く、無しと為せば無きにも似たり。

これがとにかく読みづらい文体で、もう大変だった。「五重塔」も「連環記」も古いものだからそれなりにむづかしいのだけれど、「運命」はその比ではない。街歩きをしながら読める文章ではなかった。実際、これを読み終えたのは今日の朝なのである。何度も投げ出しそうになったが、心を燃やして最後まで読み切った。それだけに感慨は深い。

建文帝は戦いに敗れ、帝の座を追われたが、僧となり生き延びて、最終的には心の平安を得た。永楽帝は争いに勝ち、天子となり領土を拡大したが、絶えず異民族の侵入におびえ、心の休まるところを知らなかった。

露伴の立場は明白だ。栄達よりも平安がよいという。書いてはゐないがそのように読める。では平安がいいからといって、どうしたら平安になれるか。建文帝と永楽帝の運命を分けたものはなんであったか。結局のところ「数」なのではないか。

追い詰められた建文帝が自殺しようとすると、側近が言う、死んではなりません、逃げましょう、帝の祖父・洪武帝が箱を残してをります。そうして箱を空けると何が入ってゐたか。

袈裟、僧帽、鞋、剃刀、一々倶に備はりて、銀十錠添はり居ぬ。篋の内に朱書あり、之を読むに、応文は鬼門より出で、余は水関御溝よりして行き、薄暮にして神楽観の西房に会せよ、とあり。衆臣驚き戦きて面々相看るばかり、しばらくは言ふ者も無し。やゝありて天子、数なり、と仰せあり。

僧になるための道具と、お金と、逃げ方が書いた紙が入ってゐたのだ。ここは名場面で、思わず深いため息をついた。露伴は「其奇に驚き、建文帝と共に所謂数なりの語を発せんと欲す」と書いてゐる。数か、数か。

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巣鴨地蔵通り商店街。繁盛してますね~

雑司ヶ谷霊園漱石の墓に手を合わせて、路面電車東京さくらトラムに乗って庚申塚まで。「おばあちゃんの原宿」こと巣鴨地蔵通り商店街を歩き、とげぬき地蔵にお参りする。それからまたさくらトラムに乗って飛鳥山で降りる。公園を散歩する。家族連れがあんまり多いので驚いた。すごい混雑ぶりだ、もっと公園がたくさんあればいいのにね。いい時間になったので山手線で五反田に戻る。

街歩きをしながら読書をするというのはとてもよいようだ。この連休のあいだ、総じて気分がよく、体調もよかった。部屋で一人ゐるとどうもダラけてしまう、陳腐なことだけれど、ちゃんと服を着て、靴を履いて、外へ出るとシャンとする。

茶店で甘いものを食べ、コーヒーを飲みながら本を読むと、たまらなく幸せな気持になる。読むのに疲れたら歩く。歩いてゐるあいだ、本のことを考える、体もほぐれる。これがよいようだ。読むという体験が普段より深くなるような気がする。週に一度くらいこういう街歩きを続けられたらうれしい。

今回は露伴ばかり読んだけれど、これから樋口一葉泉鏡花なんかも読んでいきたい。

とにかく、現代から隔絶したものを。