手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

キム・ヨナの芸術

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"Figure Skating Queen YUNA KIM" by { QUEEN YUNA } is licensed under CC BY-ND 2.0

キム・ヨナという選手として

キム・ヨナは2014年のソチオリンピックで銀メダルを獲得し、事前の宣言どおりフィギュアスケートの世界から引退した。ソチでの競技終了後、記者からの「バンクーバー金メダリストとして記憶されることを願いますか?」との質問に対して、ヨナは次のようにこたえた。

「ただ何の大会で金メダルを取った選手としてでなく、キム・ヨナという選手として記憶して欲しい」ハンギョレ 2014.02.22

キム・ヨナほどパーフェクトな戦歴をもつ選手も珍しい。彼女は好不調の波が少なく、安定して良い成績を出し続けた。主要四大会(グランプリファイナル・四大陸選手権・世界選手権・オリンピック)を制し、出場したすべての競技会で表彰台にのぼった。

2010年のバンクーバー五輪での金メダルが、おそらくは最も強く人々の記憶に残ってゐるものだ。バンクーバーのヨナは掛け値なしに完璧だった。ショートプラグラムで世界記録を更新し、フリースケーティングで世界記録を更新し、とうぜん合計点でも世界記録を更新した。

だから彼女が紹介される際にはきまって「バンクーバー五輪金メダリストの」、という枕詞がつき、多くの場合、フリースケーティングプログラム「ガーシュウィンのピアノ協奏曲ピアノ協奏曲(Concert in F)」を滑ってゐる、あの印象的な青い衣装を着た写真が付される。それはメディアの性格上しかたのないことだ。

けれども彼女は、戦歴や成績で記憶してほしくない、キム・ヨナという選手として記憶して欲しいといってゐる。

ではキム・ヨナとはどのような選手であったか。引退後に語った彼女のことばを拾い集めて感じられるのは、彼女の選手生活がいかに痛みと苦しみに満ちたものであったかということだ。

2015年のとあるイベントでヨナは、「選手生活17~18年のうち辛かった記憶が80%~90%」「幸せだと感じた記憶は数パーセントもない」と語ってゐる。中央日報 2015.07.28

また2020年のインタビューにおいて、「10年の選手生活のうち、戻れるとしたらどの瞬間に戻りますか?」と問われ、「ひとつ選ぶとしたら、やはり最後のオリンピックのフリースケーティングを滑り終えたときを選びます。プレッシャーから解放され、自分の仕事をやりとげ、『終わった』と感じました。その瞬間に最も大きな幸せを感じました」とこたえてゐる。YouTube 2020.03.04 )(YouTube 2021.07.20

キム・ヨナという選手は、痛みと苦しみを引き受け、みづからの使命を果たすために滑り、それを芸術的に昇華させた選手である。バンクーバー以前に耐えねばならなかったのは怪我と淋しさであった。バンクーバー以後に逃れられなかったのは国家を背負うという運命の重さであった。

本記事では、キム・ヨナがいかに苦しみを乗り越え、運命を引き受けたかをたどるとともに、そのことが彼女の人間的成熟につながり、芸術的深化をもたしたことを示す。

彼女のスケートには深い祈りがあり、哀しみによりそう優しさがある。聖性にみちた美しい作品を残してくれた人として、キム・ヨナという選手を記憶したい。

No Pain, No Gain

キム・ヨナは1990年9月5日、韓国・プチョン市に生まれた。初めてスケート靴を履いたのは5歳の時。バレエもバイオリンも退屈で続かなかった彼女だったが、スケートの楽しさには夢中になった。 小学校にあがり上級クラスを修了した時、コーチはヨナの母にいった。

「ヨナには天賦の才がある。フィギュアスケートの選手になれるかもしれない」

恵まれた経済状況にはなかったが、スケートの虜になってゐるヨナの姿を見て、両親はコーチの提案に従うことに決めた。ヨナはプロのフィギュアスケート選手となるための特別指導を受けることになった。

1998年、ヨナは長野オリンピックでのアメリカ代表・ミシェル・クワンの演技に他の選手にはない特別なものを感じた。

ミシェル・クワンは90年代後半から2000年代前半にかけて、ロシアのイリーナ・スルツカヤとともに一時代を築いた偉大なスケーターである。クワンのスケートの特質は、作品の主題をこころの深いところで把握し、それを身体の芯から解き放つような気持よさと壮大さにある。

ヨナの資質がクワンの芸術性に反応した。

「わたしもあんな風に滑りたい!」

そう思ったヨナはクワンの演技を録画して繰り返し見た。そうしてクワンの振りを覚え、表情を真似し、「オリンピックごっこ」をして遊んだ。幼いながらの表現力は周囲を驚かせたという。

クワンのようになりたいと思い定めたヨナだったが、過酷な練習は少女の肉体が耐えられる限度を超えてゐた。ジュニア時代のヨナは怪我がちであり、痛みと付き合いながらの練習および選手生活となった。

幼少期から10代にかけてどの程度の負荷をかけるべきかはむづかしい問題だ。成長するにつれて自然と体力がついてくる。その個人的な状況に応じて適切な負荷をかけなければならない。

ヨナが怪我がちであったという事実は、明らかに負荷が大きすぎたことを示してゐる。

当時の韓国はスケート後進国であったため、フィギュアスケートのための専用の練習場がなく、ヨナは朝早くか夜遅く、一般客に開放される前のリンクで練習せねばならなかった。リンクはとても寒く、氷の状態も良いとはいえない。学業もあるから睡眠も休息も不足がちになった。

そういう状況で厳しい練習を続けると身体のどこかに痛みとして反応が出てくることになる。しかし、韓国フィギュアの歴史は浅く、指導文化の蓄積が薄いため、スポーツ医学に基づくメニューが用意されない。

また、朝鮮や日本などの東アジアには、痛みに耐えることを美徳とし、休むことを悪徳とする苦行主義がある。そのため痛みに苦しむヨナは適切なケアを受けることができなかった。

バンクーバー五輪直前に出版された彼女の自伝を読むと、当時がいかに辛かったがわかる。以下は小学6年生のとき、スケートをやめることを真剣に考えてゐたときの記述である。

 あのころのわたしは世の中のあらゆることが不満だった。(・・・)毎日同じ練習の繰り返しは味気なく、自分がロボットのように感じられて、この調子でやっていったら頭がおかしくなってしまうかもしれないとさえ考えた。 

 最も耐え難かったのは淋しさだ。あのときのわたしは誰も自分の気持ちを理解してくれない、いつもひとりぼっちで氷の上に立っているような感じだった。わたしがどれだけ苦しくてもだれも聞いてくれない。わたしの生きる道はこのリンクだけなの?  

 

「云雀高飞:金妍儿的7分钟梦剧场」金妍儿(北京科学技术出版社出版 2010)53頁 キム・ヨナ自伝「김연아의 7분 드라마」の中国語版から筆者が翻訳

 思春期には多くの人が自殺を考えるものだと思う。練習がうまくいかないとき、わたしも考えることがあった。けれど、それはとてもデリケートなことばで、実際、死ぬのはとても怖かった。やっぱり生きたいと思った。はは!

 「もし、わたしが自殺しようとしたら母はとめるだろうか。きっととめない。死んだらむしろすっきりして喜ぶかもしれない」そんな愚かな考えをもったこともある。 

 

ヨナ 前掲書 54頁

スポーツに限らない、どんな訓練も修養も痛みと孤独に耐えることは必要だ。けれども上記ヨナの述懐を読む限り、それは行き過ぎであったといわざるをえない。行き過ぎであっても、環境がそういうものである以上、ヨナは受け入れて克服するほかなかった。

ヨナの座右の銘は「No Pain, No Gain」である。痛みなくして得るものなし。痛みがあるからこそ成長できる。自殺を考えるほどの痛みと淋しさを、ヨナは「No Pain, No Gain」主義によって乗り越えた。もちろん母のこともスケートも大好きだし、選手としての目標もある。でも、そこには必ず Pain があるのだ。

この「No Pain, No Gain」主義がヨナの強さであり、また弱さであった。ヨナが乗り越えてきた痛みはとても大きい。だからこそ高い技術を獲得し、プレッシャーを跳ねのける勝負強さを身に付けることができた。しかし、痛みを当たり前のことを考え、逆に依存するようになってしまうと、喜びを感じられなくなってしまう。

痛みに耐え、淋しさを抱え、彼女は着実に Gain を積み重ねていった。2003年には韓国選手権に史上最年少で優勝を果たし(12歳)、ジュニア最後となる2005~2006年シーズン(15歳)には世界ジュニア選手権で優勝した。

以下にそのシーズンのフリースケーティングプログラム「Papa, can you hear me?」を示す。

後に彼女のトレードマークとなる冒頭の3回転+3回転ジャンプはすでに完成しつつある。肩の力はきれいに抜け、腕全体の動きがしなやかで優雅だ。背中と肩と肘で優しく空間に触れて大きな動きをつくる。どこにも断絶が起こらず、ジャンプは大柄で着氷もやわらかい。後年に開花するこうした特徴はジュニア時代最後のプログラムにも十分あらわれてゐる。

しかし彼女が真に才能を開花させ「女王」となるためには、Pain との距離の取り方を覚えなければならなかった。また怪我をするかもしれないという不安のなかで競技を続けることは苦しい。苦行主義を脱してさらなる高みへと導いてくれるメンターが必要だった。

2006年、夏、ヨナはカナダで二人の師と出会う。振付師のデイヴィッド・ウィルソンと、後に「金メダル請負人」と呼ばれることになるブライアン・オーサーである。

カナダの二人の師匠

5月、ヨナは新シーズンのプログラム作りのため、カナダのトロントに、当時すでに人気振付師としての地位を確立してゐたウィルソンを訪ねた。ヨナのキャリアにとってウィルソンとの出会いは決定的である。

自伝を読むと、ウィルソンに言及してゐる箇所の記述が一番いきいきしてゐる。通じ合うところがあったのだろう。ウィルソンはヨナの芸術上の師匠であり、こころを開ける親友ともなった。

ウィルソンは前シーズンに振付を担当してゐたジェフリー・バトルからヨナについてこんな風に聞かされてゐた。The Japan Times 2016.03.15

「彼女はとても才能があるけれど、幸福なスケーターとはいえないよ」

当時のヨナは内気でおとなしく、笑わず、練習中も泣いてばかりゐた。ウィルソンは反対に陽気で楽しいジェントルマンだ。

「はじめの3ヶ月、最も注力したのは彼女を笑顔にすることだったよ。毎日、どうしたら彼女を笑顔にできるか、いや、笑わせられるかって考えていたんだ」

やがてウィルソンの努力は実を結び、ヨナは変わりはじめる。自伝にはこうある。

ウィルソンのたゆまぬ努力のおかげで、わたしは少しずつこころを開くことができるようになり、彼に会うと自然と笑顔がこぼれるようになった。彼と一緒にいてわたしの内向的な性格がゆっくりと変わり始めたのだ。彼は一度としてわたしに大げさな表現を求めたり、あるいは内気な性格を克服するようせまったりしなかった。ただ静かにわたしの練習を支えてくれた。

(・・・)

いつのまにか、わたしはごまかさず、自信を持って表現ができるようになった。わたしのこころの深いところにある恥ずかしくて表現できないものを、動きと表情に変える仕方を教えてくれたのは、まちがいなくデイヴィッド・ウィルソンだ。 

 

ヨナ 前掲書 74-75頁

ウィルソンは彼女の才能をどう評価してゐたのか、先に挙げた記事からひろってみよう。

「ヨナは生まれながらの表現者なんだ。カメレオンみたいだよ。ぼくは素晴らしいスケーター達と長いこと仕事をしてきたけれど、その学ぶことの速さときたらまずトップだね。ぼくが見せたものを即座に真似できてしまうんだ」

「彼女は普通の人とは別の次元で音楽を聞いているようだよ。音楽から離れることがない、決してね。彼女の本能みたいなものなのかな」

ヨナとウィルソンが初めてタッグを組んだ記念碑的作品が「揚げひばり(The Lark Ascending)」だ。ヨナにぴったりの、繊細で可憐な、美しいプログラムだ。

「この曲を聞くと、当時の身体の痛みを思いだす」

「一番辛かった頃のプログラムで、まっさきに思い浮かぶのが全身傷だらけだった記憶だ」

と自伝にある。たしかに、明らかに腰を痛めてゐて、足が高くあがらない。体力も十分ではなく、後半疲れてゐるのがよくわかる。とても辛そうだ。彼女はまだこの音楽が表現するヒバリの軽やかな飛翔を自分のものにできてゐない。

しかしこの作品はとても素晴らしい。いつかきっと飛翔するであろう、大空を自由に飛ぶだろうという大きな可能性を感じさせる。

ウィルソンのいうとおり、ヨナは一瞬たりとも音楽から離れない。加速のための一歩にも、ジャンプの前の助走にもしっかりと音楽が宿ってゐる。腕を上から下に、あるいは下から上に移動させる、その時の動線のやわらかさ、肩・肘・手首がいかに一体的に動き、いかに優しく空間に触れてゐるかに注意しよう。

両手を胸の前で合わせてゆっくりと斜め前上方に押し広げる動き、あるいは片手を首の後ろから胸の前にもってきて同じく斜め前上方に伸ばす動きがある。ヨナはこのシンプルな振りに、祈りや哀しみ、歓喜や勇気といったさまざまな感情をこめることができる。

ヨナが得意とする最も豊かな情感が宿る所作がこれであり、後の作品にも頻用される。

 
 
 
 
 
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さて、ヨナはウィルソンに会いに行ったトロントで、もうひとり重要な人物と出会う。後にハビエル・フェルナンデス羽生結弦を世界チャンピョンに導くブライアン・オーサーだ。

オーサーは84年(サラエボ)と88年(カルガリー)の2度オリンピックに出場し、ともに銀メダルを獲得。87年の世界選手権では金メダルに輝いた世界チャンピョンであり、引退後はアイスショーを中心に活躍してゐた。

2006年春、オーサーは友人トレイシー・ウィルソン(カルガリーオリンピック、アイスダンスの銅メダリスト)の誘いを受け、トロントクリケット・クラブでヘッドコーチになることに決めた。そしてスケーティング・スピン・振付、それぞれの分野のプロフェッショナルを呼び集め「チーム・ブライアン」の結成にとりかかった。

しかしコーチ業に専念というのではなく、プロスケーターとしてショーへの出演は続けてをり、彼自身コーチとしてのスタイルを模索してゐる時期だった。

そこへヨナがやってきた。当時のオーサーにとってヨナは名前を聞いたことも顔を見たこともない15歳のアジア人の少女だった。

(・・・)ところが、ちょっと滑ってもらったとたん、私は腰を抜かしました。生まれ持っての才能、天賦の才というのはこれを言うんだなと思いました。しかし、彼女は不幸そうに見えました。笑顔がなく、とても辛そうにスケートをしていました。 

 

「チーム・ブライアン」ブライアン・オーサー講談社 2014)87頁

ヨナはオーサーの指導が気に入った。

 指導を受けてみて、彼と練習するのはとても心地がいいなと思った。彼は自分の優れた技術を相手に押し付けることはしなかった。ただ、わたしが失敗したときにそれを修正してくれた。また、彼は口数が多いばかりで生徒を混乱させ集中力をそぐタイプではない。

 わたしは彼の落ち着いた性格がとても好きだ。わたしの力を信頼してくれていて、次の進歩に必要な要素を見つけだしてくれる。 

 

ヨナ 前掲書 78頁 

夏のあいだオーサーの指導を受けた彼女は母にいった。

「オーサーと一緒にトレーニングできたらいいと思う。お母さんはどう?」

母は同意した。そしてオーサーにプロスケーターを引退しコーチとして専任で教えてくれるよう依頼した。最初は断ったオーサーだったが、ヨナ側のたっての願いにとうとう承諾することに決めた。オーサーは2007年4月の公演を最後にショーから引退し、コーチ業に専念することになった。

 しかし私はいまだに不思議なのです。コーチとしての実績がまるでない私に人生を託すとヨナは決めたのですから。私たちは彼女たちに誠実に接し、彼女たちは私たちを信頼しました。そして彼女たちはチャンスをつかみ、私の人生を変えました。 

 

オーサー 前掲書 136頁

「腰を抜かすほどの才能」が「未来の名コーチ」をその気にさせたのだった。ヨナはスケーターとして、オーサーはコーチとしてそれぞれがダイヤの原石だった。ここからバンクーバーで金メダルを獲得するまで、才能と才能が互いを触発しながら高めあっていく幸福な関係が続く。

オーサーは自らのコーチングスタイルを確立し、ヨナはそれを吸収し、才能を開花させる。ウィルソンが芸術上の師匠なら、オーサーは自己実現と成功のための師匠である。

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Photo by David W. Carmichael - davecskatingphoto.com., CC BY-SA 3.0  via Wikimedia Commons

ヨナが本格的にオーサーの指導を受けるようになったのは2007年に入ってからのことだ。オーサーによれば、ヨナの唯一の欠点は「練習をしすぎること」だった。

 私が引き受けたとき、ヨナは15歳でした。オリンピックを19歳で迎えるという、まさに成長期です。私から見るとヨナはスケートのしすぎでしたし、彼女がいつもケガを抱えているのは、まちがいなくこのためでした。 

 

オーサー 前掲書 95頁

オーサーはヨナが韓国での過酷な練習のなかで内面化した苦行主義を解除し、滑ることそのものの喜びを伝えようとした。そのためにはとにかく「痛みに耐えることが常態」というこれまでの量を重視した練習から、短時間でも質のよい練習をするというやり方に方向を変える必要があった。

けれどもその際、オーサーは決して自分の考えを押し付けることはなかった。オーサーはヨナとの間に主従関係を作らなかった。いつもヨナの気持を尊重し、話し合い、彼女にあったスタイルをつくっていった。

 小さかった頃の韓国での練習と、ブライアン・オーサーコーチとの練習にはたくさんの違いがある。一番の違いは、コーチが選手に教える、選手がコーチから習う、という関係ではないことだ。わたしたちはいつでも互いの考えをもちよって話をする。表現したいこと、感じたこと、意見をあわせて、共に道を歩いてゆく。わたしの英語力は少しずつ、そうした話ができるくらいにまで上達してきた。

 子供のころのやり方はその時の自分には合っていたかもしれないけれど、今のわたしにはブライアンのスタイルがいい。彼はわたしの気持ちや状況を理解し、わたしの意見を聞き、わたしと一緒に今後の方針を決める。だから信頼も深くなって、楽しさも増す。このへんがブライアンの素晴らしいところで、わたしの好きなところだ。 

 

ヨナ 前掲書 81頁

オーサーの方針がすぐにヨナに理解されたわけではなかった。ヨナは長時間の激しい練習をやめなかった。疲労が蓄積されて筋肉はパンパンになり、十分な休息をとらぬままにまた滑って転ぶを繰り返す。だから痛みが消えない。

そうして迎えた2007~2008年シーズンは、オーサーによれば「ヨナが一年間泣き続けていたことしか印象にない」シーズンとなった。腰痛が悪化し、2008年の2月には世界選手権の直前に三週間の休養をとらなくてはならなかった。

完治してゐない状態でヨナは競技に出場し、結果銅メダルを獲得した。満足のいく結果ではなかった。

2007~2008年シーズンのEXプログラム、映画「ウォーク・トゥ・リメンバー」の挿入歌「Only Hope」を示す。

世界チャンピョンにはなれなかったが、チーム・ブライアンの指導により、技術的には大きく向上したシーズンだった。腕の動きのしなやかさはいうにおよばず、スピンや足下の技術も素晴らしい。技術が向上したことによってさらに余裕がうまれ、のびやかさが増してゐる。

あとは休むことを覚え、自信をつけるだけだ。次のシーズン、彼女は覚醒する。

覚醒と栄光

2008~2009年シーズン、ヨナは怪我に悩まされ続けた前シーズンの反省から、ようやくオーサーのことばを聞き入れる。練習量を減らし、質を重視した1日に2時間程度の集中した練習に切り替えた。

その結果、成長期のヨナの身体は自然と大きくなり、体力がつき、痛みがやわらいでいった。臀部から背中の筋肉が見違えるほど発達し、女性らしい脂肪がそれを覆った。より力強く氷を踏むことができるようになり、スピードが格段にアップし、ジャンプはさらに大柄になった。

もう一つ、あるいはもっと重要なことは、チーム・ブライアンの指導を受け始めてから2年が経過してコーチ陣との関係が親密になったことだ。チームとヨナとの間に信頼感が生まれ、オーサーによれば、2008年末頃には何もいわないでも意思が通じる関係になった。

かつては泣いてばかりゐたヨナだったが、自然に笑顔がこぼれるほどこころに余裕ができた。チーム・ブライアンがヨナのこころをほぐし、ストレスをやわらげ、自信をつけさせるために行った努力は感動的だ。彼等の献身なしにヨナの覚醒はおこりえなかった。

 もちろん私たちだけでなく、チーム・ブライアンの全メンバーがヨナの孤独を埋めました。振付師のデイヴィッド・ウィルソンもジェフリー・バトルも、他のスタッフもみんな、ヨナは特別に可愛い生徒なんだと、つねに伝えていました。「あなたの帰る場所があるのよ」と言ってあげることが、厳しい戦いを続けている選手にとって必要なのです。それを私は現役時代に痛いほどわかっていました。どんなことがあっても、結局最後はそこに帰ってくる、という安心感が大事なのです。

 そのためには、みんながヨナのありとあらゆることに気を配りました。ジャンプだけでなく、ヨナの手の振り方、膝の使い方、目線の使い方など、あらゆる細部について、全員が意見を出しました。「私がこのリンクの主役なのだ」と感じることがヨナにとって必要だったのです。 

 

オーサー 前掲書 99頁

 私たちは4年間かけてヨナの喜びを彼女の外に引き出そうとしましたが、それはタマネギをむくようなものです。真ん中にたどり着くまでに、すべての皮をむかなければならず、結局、3年近くかかったのでした。文化の変化やトレーニングの違いに適応し、ヨナが完全に変化するには、それだけの時間が必要だったのです、でもそれは興味深いプロセスでした。私はそのすべてを楽しみました。私たちは素晴らしい関係を築きました。シーズンを追うごとに彼女はうまくなり、私たちもコーチとしての腕を上げたのです。 

 

オーサー 前掲書 104-105頁

このような幸福な関係のなかで生まれた2008~2009年シーズンのSP「死の舞踏(Dance Macabre)」は歴史的傑作といってよい。

この曲は振付師のウィルソンがもってきた。ヨナはすぐにこの曲を気に入り、すぐにこれに決まった。オーサーによれば、この曲に出会ったときに、自分達がオリンピックの金メダルに向かって大きな角を曲がったと確信したのだそうだ。

体力、意気ともに最高度に充実した状態で迎えた2009年の世界選手権、ヨナは完全にこれまでとは別の次元に飛躍する。

真夜中の墓地、激しく、怪しく、踊り狂う、死神になる。 

ここでヨナが到達した音楽との一体感、憑依力は空前絶後である。音楽、振付、身体、衣装、メイク、すべてが強烈に主張しながら渾然一体となって一つの世界を作ってゐる。彼女は作品を理解するイマジネーションとそれを具現化する技術を十全に兼ね備えた天才だ。

この覚醒を可能したのは背面の筋肉(ハムストリングス・臀部・背中)の発達である。彼女のジャンプが、スピンが、腕のふりが、なぜこのように大きく、力強く、セクシーで、優雅で、しなやかであるのか。すべては背中の厚み、その操作の精妙さによる。

背面での操作が重要であることはあらゆる身体運用法に共通してゐる。しかしその重要性はフィギュアスケートにおいてことに大きい。なぜなら、フィギュアスケートにおいて、観客はかなり多くの時間、スケーターの背中を、あるいは背中側の空間を見ることになるからだ。

だから背面の空間をどうつくるかがフィギュアスケートの表現においては決定的に重要である。ヨナは背面の見えない空間に対するイマジネーションが素晴らしく豊かな人だ。だから動きがすごく大きく躍動的に見える。

2009年の世界選手権で優勝し、ヨナは悲願であった世界チャンピョンの座を手に入れた。オーサーは世界選手権後のヨナについて面白いことをいってゐる。

 2009年3月の世界選手権で優勝したあと、突然、ヨナが少女から女性に成熟しました。いまでもそのときのことをはっきりと覚えています。世界選手権が終わって、韓国で行われたショーに行ったときのことです。デイヴィッドと私はホテルのロビーで彼女が来るのを待っていました。ヨナはスポンサーについている会社の講演会があったのです。彼女はビジネススーツを着て、髪をおろし、歯列矯正器を外していました。自信にあふれ、堂々と歩いてきた美女を見て、デイヴィッドと私は顔を見合わせて言いました。

「ああ、僕たちの小さな女の子はすっかり大人になってしまったね」

 彼女は完全な自信を手に入れ、世界女王の貫禄を身につけたのです。歯列矯正器を外したとたんに、突然といってもいいほど美しい女性になりました。しかも性格まで変わってしまったのです。とてもくつろいだ、柔らかい笑顔が見られるようになりました。 

 

オーサー 前掲書 105頁

次なる目標はバンクーバー五輪での金メダルである。

世界女王となり完全な自信を手に入れたヨナに死角はなかった。チーム・ブライアンの布陣は磐石であり、相互の信頼も厚い。ヨナとチーム・ブライアンは最高のプログラムを用意して2009~2010年シーズンに突入した。

ヨナが落ち着いて普段通りのパフォーマンスをすれば必ず金メダルがとれる。オーサーはそのために綿密なスケジュールを組んだ。いつどの程度の力を入れてどの競技会に出るのか。どこで休息をとるのか。2月のオリピック本番に最高のコンディションに持っていくために完璧な準備をした。

ところがヨナはオリンピックの一か月前に足首に小さなケガをしてしまう。しかし彼女は焦らなかった。いまや Pain は必ずしも不安と孤独につながるものではなかった。

ここで休むことで、本番に最高のコンディションにもっていける。彼女はそう考えた。

準備期間中は体調も万全で、まるで空を飛ぶかのように体が軽かったんです。でも、頭の中では「こんな計画通りにいくわけがない、あまりにスムーズにいくのはおかしい」と思っていました。

案の定、オリンピックのわずか一か月前に足首をケガしてしまいました。そのときわたしは「そう、こんなものよ」と言いました。

「オリンピックまでにコンディションを回復させるために、いまが息抜きをするときなんだ。きっとそのためにケガを与えられたんだ」と考えました。

不安な状況をポジティブに受け止める術を自分は知っているのだと気づきました。

 

Interview By Nick McCarvel & Daum Kim 2022.02.02

ヨナは最高の表現をする自分の姿がはっきりと見えてゐたに違いない。

果してヨナはオリンピック本番でショートプラグラム・フリースケーティングともに完璧な演技を披露して金メダルを獲得した。

ヨナは自伝のなかで、ガーシュウィンの「ピアノ協奏曲(Concert in F)」のことを「これまでで一番すぐれたプログラムだと思う」と書いてゐる。

たしかにこれは他の作品とは違ってゐる。他の作品と異なり「物語」「情念」「キャラクター」などの明確な「テーマ」をもたない。

他の作品ははっきりとしたわかりやすいテーマを持ってゐる。オペラや映画の曲であればその物語とキャラクターをなぞることになるし、物語がなくても、求愛であったり、祈りであったり、空翔るヒバリであったり、必ず何かを演じたり、情念を表現をするというテーマがあった。

そしてヨナは憑依の名人であるから、キャラクターになりきったり、情念に共鳴するのを得意とする。ところがこの「ピアノ協奏曲」にはそれがない。キラキラした感じ、豪快な感じ、しっとりした感じ、チャーミングな感じ。これらピアノとオーケストラが提出する断片的なモチーフがあるばかりで、統一的なイメージをもたない。透明だ。

透明だからこそ、ヨナ個人がもっとも輝いてゐる作品といえる。神秘的なまぶしさがある。ヨナの自己実現の物語とそれを支えたチーム・ブライアンの情熱、そしてヨナの成功に国家的自尊心を託した韓国国民の熱狂が、見事に昇華してゐる。

ここにある自己実現と国家的自尊心との幸福な一致に、「ナショナリズム」とことばから連想されるまがまがしいものは感じられない。澄明で凄烈な光を放ち、しかも最高にエレガントだ。

エキシビションプログラムは「タイスの瞑想曲(Meditation from Thais)」。

息を飲むような静謐な美しさ。ヨナは本当に祈りの表現が得意だ。

「007メドレー」、「ガーシュウィンのピアノ協奏曲」、「タイスの瞑想曲」。すべてヨナの魅力を最大に活かした素晴らしい作品。2008~2009年は完璧なシーズンだった。

奇蹟のような歓喜の瞬間を実現したキム・ヨナは偉大だ。彼女は「女王」と呼ばれるようになった。そして「国民的英雄」となることもまた不可避であった。

運命

10代でオリンピック金メダルという最大の栄誉を獲得した選手はその後のキャリア形成につまづくことが多い。

1998年の長野五輪を15歳で制したタラ・リピンスキーと、2002年のソルトレークシティ五輪を16歳で制したサラ・ヒューズは翌シーズンには引退し、スケートの世界から姿を消した。2018年のピョンチャン五輪を15歳で制したアリーナ・ザギトワは、引退はしてゐないが2019年に活動休止を宣言し、2022年の北京五輪には不出場である。

まづ、五輪の政治性という問題がある。マスコミ報道が過熱してアスリートを英雄にまつりあげ、国民は愛国的な感情を高揚させ、政治家はこれを利用する。英雄は期待にこたえられてゐる間は崇拝されるが、そうでなくなれば見捨てられる。そういう状況で精神の平衡を保つことは誰であってもむづかしいはずだ。

また、ジャンプ偏重のフィギュアスケートにも問題がある。女性は10代後半から体重が増えはじめ、それまで飛べてゐたジャンプが飛べなくなるために成績が低迷することが多い。全盛期が10代半ばであるのはスポーツとして不健全だ。また細い体型をよしとするルッキズムが根強いため、これに苦しむ選手もゐる。

バンクーバーで金メダルを獲得したときキム・ヨナは19歳だった。もし彼女があと数年若かったら、その後の素晴らしい活躍はなかったかもしれない。彼女は韓国での厳しい練習を乗り越え、異国での生活にも適応し、おそらくはふつうの19歳の女性と比べるとかなり成熟してゐた。そのことが幸いした。

そうはいっても、19歳で主要大会をすべて制してしまった彼女が目標喪失に苦しむのはとうぜんのことであるし、韓国におけるヨナに対する熱狂はすさまじいものがあったから、その重圧も相当のものであったはずだ。

5月末にヨナは会見を開き「これからは負担なく競技を楽しむのが目標になりそうだ」と述べ、現役続行を宣言する。そして8月、ブライアン・オーサーとの契約解消を発表した。この訣別についてはヨナ側とオーサー側の主張が食い違ってをり、真の理由は不明である。

下世話な詮索をすべきではない。単純に、新しいスタイルをつくっていかなくてはいけない、そのプロセスのなかで、自然と方向性の違いが見えてきた。ただこれまでの3年半があまりに蜜月であったために、きれいな別れにならなかった。そのように理解すべきである。

 ヨナと一緒にいた3年半で、私は彼女に何を与えることができたのか。彼女がこう答えてくれたら嬉しいですね。「スケートを滑る喜びを、ブライアンが発見させてくれた」と。金メダルなどよりも、そのほうがずっと大切な宝物になります。もし彼女がそう感じられたなら、私もデイヴィッドもトレーシーも、彼女の人生を豊かにしたことになります。光栄なことです。彼女がどう答えるかわかりませんが、でも私はヨナにスケートを滑る喜びを贈ったのだと信じています。 

 

オーサー 前掲書 132-133頁

さて、とにかくヨナはオーサーと訣別し、振付師ウィルソンとの関係は継続することとなった。翌シーズン以降は、大会に出るのは最小限に抑えてオフシーズンにアイスショーに出演するというスタイルを引退まで貫く。

彼女は4年間ついぞ新しい明確な目標を見つけることができなかった。ソチ五輪後のインタビューでヨナは次のように語ってゐる。

「再び五輪に挑戦する時、最も難しかったのは、明確な目標がなかったことだ。バンクーバー五輪は金メダルのために自分の命をかけることができたが、金メダルを取った後は当時のような切実さはなかった。練習でモチベーションが十分でなかったのが難しかった」 中央日報 2014.02.21

またブライアン・オーサーは「ソチでのヨナは義務感で滑ってゐるのが明らかだった」と述べてゐる。これは正しい。

バンクーバー以降の彼女にはアスリートとしての闘争心やハングリー精神を見ることはできない。新しい技術を習得したということもない。試合に勝っても喜ばない。たしかに「義務感」ですべってゐた。

しかしぼくの見るところ、アスリートとしてのヤル気を失った、そのことによって、彼女のスケートの芸術的側面がより深くなった。高い点数をとって勝つために滑ることをやめたところに、これまで以上の芸術性が湧き出ることになった。

勝ち負けの観点から見れば覇気がないように見えるバンクーバー以降の作品にこそ彼女のスケートの真価がある。

バンクーバー五輪で金メダル五輪を獲得するということは自分で決めた目標だった。その夢と国民の期待は一致してゐた。実際に夢を実現した後に、自分のほうは目標を失ったが国民からの期待は継続した。国家を背負うという役割は残ったのである。これをどう引き受けるか、どう終わらせるか、それが問題であった。

練習は辛い時間がほとんとだったとヨナは繰り返し語ってゐる。勝利のための練習はもう耐えられなかった。しかし彼女にはスケート後進国である祖国にスケート文化を根付かせたいという気持があった。ピョンチャン五輪広報大使としての仕事もあった。そのために象徴的存在であるヨナは現役を続ける必要があった。

世界記録や五輪連覇という目標があるわけではない。しかし現役を続け、大会には出る。これは矛盾であった。人は答えの出ない矛盾を抱え込んだときに成熟する。

この矛盾がヨナのスケートを変えた。目標に向かって一心に努力するアスリートの姿はすでにない。ヨナのこころを領したのは、運命をいかに引き受けるかという人間の根本問題であった。

2010年10月、オーサーの後継コーチはミシェル・クワンの義兄、カルガリーオリンピックの銅メダリスト、ピーター・オペガードに決定した。

フリースケーティングアリランをはじめとする韓国の伝統音楽を編曲した「オマージュ・トゥ・コリア(Homage To Korea)」。ファンと祖国に対する感謝の気持を込めた作品だ。

どう考えても試合で勝つためのプログラムではない。この曲はスケートに合ってゐない。朝鮮の民族音楽にバレエ系統の動きを合わせるという試みは失敗したように見える。優れたプログラムとはいえない。

だが現役続行を決めた彼女が最初に選んだ曲が「朝鮮に捧ぐ」であることは、彼女の引退まで活動の意味を示唆するようで象徴的だ。その点においてこの作品は重要な意味をもつ。

ヨナが自分に与えられた役割をどのように考えてゐたのか、なんのために滑るのか。それはやはり「朝鮮」のためだったに違いないのだ。

朝鮮半島の近代史は哀しみに満ちてゐる。分断された南半分である韓国という国家を背負うことになったキム・ヨナの表現は、意図したものではなかったと思うが、この哀しみという感情に引き寄せられていく。

それを見る前に、引退までに残した珠玉の作品群を確認しておこう。

珠玉

まづ、2010~2011年シーズンのショートプラグラム、「ジゼル(Giselle)」。

次に、競技会には出場せず休養にあてた2011~2012年シーズンのエキシビションプログラム、ビヨンセの「Fever」。

10代から色気のある人だったが、大人になって競技のストレスから解放されたヨナはどんどん艶っぽさを増してゆく。ウィルソンのエロティックな振付が、匂いたつような女体の美を十全に引き出してゐる。

つづいて、2012~2013年のエキシビションプログラム「ロクサーヌのタンゴ(El Tango de Roxanne)」。この作品はシニアにあがった2006~2007年シーズンのショートプラグラムでも使用してゐたものである。

比べて見ると彼女の成長が感じられてより楽しむことができる。ヨナの妖艶な美しさを存分に堪能できる傑作であり、だからこそファンからの人気も高い。

勝負の世界から距離をとり、さまざまなキャラクターを演じることを楽しんでゐるのがわかる。バンクーバー以前の生活はあまりにも忙しく、張りつめてゐた。

ひとつひとつの作品とゆっくりと向き合うことで、技術と表現との結びつきがどんどん深く強くなっていく。毛色の違ったさまざまな作品に挑戦することでヨナは自身の表現の内的な豊かさを深めていった。

同じく2012~2013年のエキシビションプログラムのマイケル・ブーブレの「All of me」では、ヨナはジャズナンバーに合わせて男装の麗人を演じてゐる。

足元の緩急やスピンの速度の上げ下げによって、ジャズのルーズで瀟洒なリズムを表現してゐる。これはとてつもないことだ。また、この作品にはジャンプが一度も出てこない。ジャンプがスケートの華であるようにいわれることが多いが、ジャンプなしでもこれだけ素晴らしい作品ができる。

2012~2013年のエキシビションプログラムはもう一つある。おそらくは、これがキム・ヨナエキシビション作品の最高傑作であろう、アデルの名曲「Someone Like You」。

芸術的感受性と、体の使いかたのうまさと、スケーティング技術と、すべてにおいて卓越したヨナが到達した天衣無縫の境地がこの作品である。

ここでヨナは完全に氷と一体化することに成功してゐる。ここまで身体の拡張に成功してゐる作品は他にない。

全篇にわたって氷と身体が一つになることで生まれるエネルギーの受け渡し、ヨナと氷との交感が視覚化されてゐる。ある動きが次の動きを生み、その動きがまた次の動きを呼び込む。恐ろしく高度で精妙な動きが自律的に生成してゐる。

最後に2013~2014年シーズンのエキシビションプログラム、プッチーニの「誰も寝てはならぬ(Nessun Dorma)」。

2010年のバンクーバー五輪で金メダルを取り、彼女はスポーツ選手として完全な成功を手にした。その後の4年間、目標の喪失に苦しみながらも、さまざまな作品に挑戦し、2014年のソチ五輪でも完璧な演技を披露した。これは五輪後の5月に開催されたまさにキム・ヨナ最後のショウでのパフォーマンスである。

アスリートとしても表現者としても行けるところまで行ってしまった、その孤高のためか、ほとんど怪物的とでもいいたくなるような物凄い存在感を示してゐる。あまりの崇高さに、観客もどう反応していいのか困ってゐるようだ。

哀しみの芸術

再び、朝鮮半島の近代史は哀しみに満ちてゐる。

1910年、大韓帝国大日本帝国に併合された。帝国の拡大と戦争の激化にともなってその支配は強化され、皇民化政策によるアイデンティティの破壊や、戦場・工場・慰安所への強制連行が行われた。21世紀日本ではこれらの加害を矮小化あるいは抹消せんとする歴史修正主義が跋扈してゐる。

1946年に日本が戦争に敗れ半島から去ったあとには、米ソ対立の深刻化のなかで朝鮮戦争が始まり、結果、南北に分断されることとなった。1950年から3年続いた朝鮮戦争では戦線が大きく移動したことによって半島全土が焦土と化し、正確には不明だが、全人口3000万の一割が犠牲になったともいわれる。

停戦・分断後にも、韓国では軍事独裁から民主化を勝ち取る過程で多くの悲劇があった。北朝鮮は閉鎖的であるために内部の詳細は不明だが、粛清や飢餓のニュースが耐えたことはない。周辺国のさまざまな利害がからみあって統一への歩みは一進一退を繰り返し、まだ「冷戦」が終わってゐない。

半島の大地には癒されざる哀しみが眠ってゐる。「オマージュ・トゥ・コリア(Homage To Korea)」で出発した後期キム・ヨナの表現はこの哀しみに引き寄せられていった。哀しみが彼女を見出した。

2012~2013年シーズンのフリースケーティングレ・ミゼラブル(Les Misérables)」、2013~2014年シーズンのショートプラグラム「悲しみのクラウン(道化師)(Send in th Clowns)」、そしてフリースケーティング「アディオス・ノニーノ(Adios Nonino)」。

これら3作品でヨナは、人がいかに哀しみとともに生きていくかを追求した。

まづ「レ・ミゼラブル」。

原題の Les Misérables は「悲惨な人々」「哀れな人々」を意味する。文豪ユーゴーの大長編は題名のとおり、悲惨な運命に翻弄される哀れな人々の物語だ。しかしユーゴーは悲惨で哀れな生を生きる人々が、高貴な精神を失うまいとする健気な姿を英雄的に描いた。

ぼくたちはフランス革命の時代を生きてはゐないが人生の苦しさについては誰でも知ってゐる。人生の大半は負け戦を強いられ、幸福は長続きせず、苦労はさかんに降ってくる。油断してゐるとすぐに卑屈になって、幸福に見える人間を妬んでひきずり下ろすことに熱中しはじめる。平凡人はそんなものだ。

しかしどんな平凡人のうちにも「善く生きたい」「もっと自分を好きになりたい」という気持がある。報われない環境や苦しみの中にあって、そういう気持を持ち続けることができるか否かに人間の品位が現れる。

人間にとっていちばん大切なものは尊厳であり、尊厳を守るためには勇気が必要だ。気高い精神を守るための戦いに、勇気を出して挑まなくてはならない。これは誰もが日々行ってゐる自分との戦いであり、英雄的な営みだ。

舞踊芸術のひとつの重要な役割は、このような価値、美徳を顕揚することである。

ヨナの「レ・ミゼラブル」は運命に抗い卑屈に堕ちまいとする人間の勇気と尊厳を見事に表現してゐる。10代のキム・ヨナには決してできなかった表現だ。目標を失い、矛盾を抱え続けることを選んだヨナであってはじめて、この荘厳さをまとうことができた。

続いて「悲しみのクラウン」。

レ・ミゼラブル」では哀しみに打ち勝つ英雄的な人間を描いたが、ヨナはこの「悲しみのクラウン」では、哀しみに対して全く別のアプローチをしてゐる。哀しみに寄り添い、哀しみとともに生き、そしてその生を愛おしむ。そんな人間のありかたを表現してゐる。

これを憐れみという。憐れみとは哀しみに寄り添うこころのはたらきである。「レ・ミゼラブル」とは反対に、「英雄的な精神」や「勇気」を発揮できない人間の弱さ、気高い精神を売り飛ばしてしまう人間の卑しさに、優しく寄り添ってゐる。

天上的なまでに美しい。この作品には人間への愛があり、神への祈りがある。キム・ヨナ史上もっとも静謐で聖性に満ちた宗教的作品である。

そして最後はアストル・ピアソラのタンゴ「アディオス・ノニーノ」。ノニーノはピアソラの父の愛称で、この曲は亡くなった父に捧げられたものだ。

競技生活の最後にヨナは情熱的な鎮魂曲を選んだ。彼女にとってこれが自分のスケート人生との別れである。彼女の思いは複雑だ。選手生活のあいだ辛い時間がほとんどだった。幸せな記憶は数%もなかった。しかしその運命を引き受け、主体的に選び取った。苦しさも喜びもひっくるめて、自分の人生を愛するのだ。

哀しみ、決意、喜び、赦し、平安。ヨナはこの4分間に、これまでのスケート人生を思いかえし、さよならを告げる。

バンクーバー時代とはまったく違うヨナがここにゐる。10代後半のヨナはそれこそ神がかって、強烈な巫女性をまとってゐた。韓国国民の期待を一身に背負い、完璧な演技を行い、巨大なカタルシスとともに歓喜を生んだ。

しかしいまは違う。ヨナは脆く、弱く、傷つきやすい肉体をもった普通の人になってゐる。普通の人として、彼女は「愛と別れ」という普遍的な主題をこれ以上ないほどの優雅と気品をもって表現してゐる。

演技終了後、ヨナは控え室で泣いたという。多くの人はそれが疑惑の採点のために銀メダルに終わってしまったことに対する悔し涙ではないかと想像した。しかしそれはまったく違う。涙の理由をヨナは「これまであまりにも辛かったので、ずっと溜まってきたものが一度に噴出した涙だった」と説明してゐる。

競技後のヨナのことばをいくつか拾ってみよう。

「点数や結果に関心が偏る雰囲気が続いていて、私の涙の理由もその方に解釈されているようですけど、100パーセント正直言って、私の涙に悔しさとか心の痛みとかいうことは全くありません。信じて下さってかまいません」

「私が平気なふりをしていると思っておられるようですけど、本当に、終わったということに満足しています」ハンギョレ 2014.02.27

「私は2連覇には全く関心がない。ただ私の最後の競技をうまく終えたかっただけであり、結果はどのように出てきても後悔しないようにしたい」

「私が準備してきた全てのものを見せることができて満足だ」ハンギョレ 2014.02.22

これらのことばから明らかなように、彼女は「終わらせるため」に二度目の五輪に出場した。ヨナがモチベーションに苦しみながら、悩み続ける中で問題にしたのは結果ではなく、「終わらせかた」だった。

ヨナがそのスケート人生で体現してきたものとは韓国の希望であり夢であり誇りだった。その彼女がスケートをやめることは、国家を背負うことをやめることを意味する。その大事業に挑んだのがソチ五輪だった。

そこでヨナは哀しみを主題とする、静謐で荘重な「悲しみのクラウン」と優雅で情熱的な「アディオス・ノニーノ」を提出してきた。4年前の2作品とはまったく対照的な表現だ。では、なぜ最後の二作品がこのような「地味」なものになったのか。先述のとおり、朝鮮半島の癒されざる哀しみがそうさせたのだとぼくは考える。

目標のない葛藤の時間に、彼女はそれと知らず、朝鮮の声を聞いたのではないだろうか。この哀しみを癒すことが最後の仕事だと考えたのではないだろうか。そして彼女は見事にそれを果たした。それが出来たと確信した。だから泣いた。

そのように考えると、「ただ私の最後の競技をうまく終えたかった」という彼女のことばは、どこか祈りに似た響きをもつように感じられないだろうか。

キム・ヨナの芸術は哀しみの芸術である。哀しみを共有し、痛みを分かちあえたとき、人と人は結びつくことができる。

ぼくは政治的にものを見すぎてゐるだろうか。そんなことはない。人の生きるところに政治はある。背負いたくない政治性を背負ってしまう局面がある。彼女はそこから逃げなかった。

ぼくの知る限り、彼女が南北の政治情勢について具体的に言及したことはない。しかし彼女は平和を祈ることを忘れなかった。

だから最後のエキシビションプログラムは「イマジン」なのだ。

自己受容

引退後のキム・ヨナの活動は主に、スポーツイベントの大使、CM出演、雑誌のグラビアなどである。後進の育成や振付の手伝いなども行ってゐるようだが、専任の指導者ということでもないようだ。SNSの更新は少なく、プライベートな情報はほとんど出てこない。「セレブ」という呼称がもっともふさわしいように思う。

アスリートの選手生命は短い。ことに五輪の金メダルを狙うレベルの選手達はふつうの人間が何十年もかけて経験する苦難や選択や葛藤を極めて短い期間に体験する。彼等は成熟を強いられる。キム・ヨナの10年の選手生活はおそらくそのような厳しく濃密なものであった。

強いられた成熟のあとに、ヨナはゆっくりと時間をかけて、あたりまえの日常を取り戻そうとしてゐるようだ。2019年のインタビューにおいて、引退後の日常について彼女は次のように語ってゐる。Wow! Korea 2019.10.17

「特別なことはない。以前、観たいと思っていた映画を合間に観ている。とても楽しい瞬間ではないが、なにしろそのような些細なこともせず生きてきたので、そんな瞬間が幸せだ」

「本当に普通の人間だと思い、どちらか一方に偏ることがないように努力しバランスの取れた生活をしてみようと思う」

ぼくは韓国語を解さないために、原語でのニュアンスはわからないのだが、このあまりに凡庸なことばには胸を打つものがある。それは自己受容ということだ。彼女は本当に普通である自分を受け入れて、愛してゐる。あまりにも平気で自然である。

引退後のヨナのアイスショー出演は2018年と2019年の二度である。本記事はそのうち2018年に発表した新作、ポール・トーマス・アンダーソン監督の映画「ファントム・スレッド」のテーマ曲「House of Woodcock」を紹介して締めくくりとしたい。

とても美しい。

彼女の美しさにはどこにも誇示的なところがなく、健気で可憐だ。儚いものを愛おしむような優しさがある。

キム・ヨナは自分の人生に対して誠実である。そして、普通の人間としての自分を愛してゐる。この「House of Woodcock」には引退から4年を経たヨナのそのようなこころの平安がある。

誠実に生き、自分を愛し、平安を得ること。それはひとりの人間にとって、世界記録や金メダルよりも価値あることではないだろうか。