7月9日、土曜日。
アマゾンPrimeに小津安二郎の「晩春」(1949)が入ってゐるのを発見し、鑑賞。笠智衆演じる周吉と原節子演じる娘・紀子の物語。周吉は早くに妻を亡くし、娘との二人暮らし、いろいろ家のことをしてくれるので嬉しく思ってゐる。娘のほうも父のことが好きで嫁になど行かずそのままで楽しいと考えてゐる。
周吉には妻が、紀子には母がゐないために、この親子には異性のあいだにだけ生れるような独特の親和があるようだ。しかしいつまでもこの心地よい関係を続けることはできない。娘は夫を得るべきである。とうぜんこの親和は失われなければならない。映画の見どころは、父娘間の親和と緊張、それを体現する主演二人の名演。
新しい妻をもらうことにしたと娘にウソをつくシーンや、一人で林檎の皮をむくラストなど、笠智衆の迫力は凄まじいものがあった。老年にいたり娘を手放して孤独になる。男が孤独を引き受けて成熟する物語だ。
次は読書である。
芥川龍之介の全集を順番に読んでゐる。第三巻の半ばを過ぎたところで、「老いたる素戔嗚尊(すさのをのみこと)」という作品に当った。大蛇を退治した素戔嗚尊は、櫛名田姫を妻として須賀の地に暮らし、子をつくる。やがて櫛名田姫が病に罹って死んでしまい、素戔嗚尊は息子に世を譲り、一人娘の須世理姫を連れて無人島に移り住む。
ここにも明らかに父娘のあいだにだけ生れる親和と緊張がある。「晩春」の周吉とちがって、素戔嗚尊は乱暴者の神様なので、この親和を破ろうとする者に対しては激烈な怒りを向ける。ある日、葦原醜男(あしはらしこを)という男が島を訪れて須世理姫の恋人になる。これを素戔嗚尊は許せないので、手を変え品を変え男を殺そうとする。
けれども父が罠をかける度に須世理姫が葦原醜男を助け、また葦原醜男も非常に骨のある男なのでへこたれない。ついに素戔嗚尊は二人の関係を受け入れ、祝福して送り出す。
「おれはお前たちを祝ぐぞ!」
素戔嗚は高い切り岸の上から、遙かに二人をさし招いだ。
「おれよりももつと手力を養へ。おれよりももつと智慧を磨け。おれよりももつと、・・・・」
素戔嗚はちよいとためらつた後、底力のある声に祝ぎ続けた。
「おれよりももつと仕合せになれ!」
彼の言葉は風と共に、海原の上へ響き渡つた。この時わが素戔嗚は、大日孁貴と争つた時より、高天原の国を逐はれた時より、高志の大蛇を斬つた時より、ずつと天上の神々に近い、悠々たる威厳に充ち満ちてゐた。
「晩春」も「老いたる素戔嗚尊」も、老いた男が娘を手放して成熟する話だ。同じ主題の作品に続けて出会ったのはまったくの偶然で、なんの意味もなくただそうなった。けれどもこういう場合になにかしらの意味を見出したくなるのがひとの性で、ううむ興味深い暗合であるなあ、くらいのことは感じた。
思うに、偶然であることと必然であることは、矛盾せず共存するのである。