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「中国哲学史」中島隆博

中国哲学史 諸子百家から朱子学、現代の新儒家まで中島隆博 2022 中公新書

仁、礼

「仁」は孔子によって新たな息吹を与えられた概念である。

 アンヌ・チャンは「仁、は人を愛することである」という一句を手がかりに、「孔子の語る愛が、神という源泉に基づくことのない、最も人間的なものであること、そして情動的で感情的な次元に根差し、かつ相互的な関係に根差していることである」(『中国思想史』)と指摘している。この読解のポイントは、仁が、神のような超越的な源泉にではなく、人間的なものに根差している、とりわけ感情的で相互的な次元に根差しているというものだ。古代世界において(あるいは近代世界でも)、意義の源泉を神やそれに類した超越に求めるというのは、ひとつの説得的な態度であったことだろう。しかし、孔子はそれに対して「否」を言い、あくまでも人間という次元、しかもより不安定な感情や相互性の次元に着目したのである。 52-53頁

感情や相互性の次元に根差す「仁」は「礼」によって表現される。「礼」とは感情の様式化、しかしそれは固定的な規範ではない。変容し続けるもの。

 「礼」は古い概念で、おそらく中国哲学の鍵概念の中でもかなり重要なものである。今日、礼概念の見直しを精力的に進めているハーバード大学中国哲学者マイケル・ピュエットは、礼について「礼は感情に由来する。それは模範的だと見なされた対応であり、次世代を訓練してその感情を様式化するのを助けるとも考えられている」(「不連続の神義論ーー古代中国においてエネルギーと感情を飼い馴らす」)と述べている。それゆえ、礼は「完璧にすべての情況に適合する」ような客観的で普遍的な法規範ではない。礼はその都度見直され、変形され、状況への対応において適切であり続けなければならない。

 ここで挙げられている礼は、単なる儀礼的で形式的な規範ではない。それは、バラバラになりそうなこの世界を繋ぎ止める、弱く、不安定な規範であって、人間の感情の様式化に由来するものだ。この発見的な議論を手がかりに考えると、孔子もまた、仁と礼をあらためて繋ぎ合わせることで、ピュエットが見出すような礼を再び賦活しているのではないだろうか。つまり、仁を通じて人が人間的になるためには、感情と相互性の次元に深く立ち直さなければならないからこそ、礼という感情を様式化する規範に訴えようとしたのではないか。 55-56頁

新しい王道

現代中国の哲学者達は中国的であると同時に普遍的な「世界」概念を提出しはじめてゐる。グローバル化の時代に中国がローカルな文化の次元にとどまってゐてはならない、普遍性や世界性を有する文明の次元に参与しなければならないからだ。

 ここで、中国的な普遍に対するもう一つ別のアプローチを見ておこう。それは儒家的なアプローチで、天下さらには「王道」をグローバル化時代の普遍として再構築しようというものだ。その主要な提題者である干春松は、次のように述べている。

 

 わたしたちは儒家を普遍価値とみなす勇気を失ってきた。時には、儒家と西洋価値の類似性を儒家の存在と発展の理由とすら考えたのである。いかなる普遍性も単一的なものではなく、多様に構成されるものである。もし儒家が自動的に自分の普遍性の側面を放棄するなら、おのずと普遍価値の構築において自らの参与と普遍価値構築の可能性を失ってしまう。 (「王道と天下国家ーー儒家の王道政治から天下国家観観念を再考する」、「余論」)

 

 さらに干春松は、「東アジア共同体」の接着剤としての儒学、そして「新しい王道」の可能性を示唆している。

 では、その新しい王道の内容は何か。干春松は、それを「市民意識」「異なる正義」「人類共同体でこの世界を分有し享受する意識」「異なる価値体系を包容するコンセンサス」と定義している。それによって、「脱亜入欧」から軍国主義に向かった日本と異なる仕方で、もう一度王道に回帰し、アジアに回帰し、そして世界平和の新しい出発を実現しようというのだ。

(・・・)

「「日本のアジア」はその後かえってアジア人の悪夢となってしまった」と語る干春松は、どうすれば中国の夢が「アジア人の悪夢」とならないかを、おそらくは意識しているのだろう。

 問われているのは、二〇世紀前半の日本の経験である。中国哲学の現在において、わたしたちは決して未聞の議論に逢着しているわけではない。逆に、日本の近現代において、わたしたちが経験してきた哲学的な問いをあらためて突きつけられているのである。 336-337頁