手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界」阿部謹也

ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界阿部謹也 ちくま文庫 1988

鼠退治をしたら金をくれるという約束だったのに、ハーメルン市民はそれを反故にした。男は怒る。笛を吹くと、こんどは子供たちが大勢走り寄ってきた。男は130人の子供たちと山に入り姿を消した。

怖ろしい話だ。同時に、すごく魅力的でもある。人間生活におけるごく普通の、普遍的な感情を強く刺激する。鼠に食糧を食われて辛い、退治してくれて嬉しい、でも金は払いたくない、そんなら復讐してやろう、子供をさらってやろう、子供が消えて悲しい。事柄と感情がどれも単純だが、それだけに強力だ。

この有名な物語はすべてが事実ではないが、すべてがニセモノでもない。ある事件があり、それが記憶され受け継がれていく過程で、人間の情念が付着し、あるいは假託され、少しづつ変容して出来上がった。中世ヨーロッパの民衆の集合意識が数百年かけてつくりあげたものだ。

本書はその変容の過程を描く。著者はまづ先行研究を紹介検討しながら、遡れる限り事実として確からしいのはこのあたりだと推定を行う。そして、中世ヨーロッパの社会がどのようなものであったか、そこで生きる人間たちはどのような生活をしてゐたかを記しながら、感情が物語として結晶化するプロセスを追う。人間が事件を物語化するときにどのような感情が作用するか。

鼠退治の話と子供消失の話はもともと別物で、それがいつのまにか結合しちゃったんだって。面白い。いまでいう都市伝説なんかもそうだけど、どこで誰が言い出したのわからないお話って楽しい。そこに本物の感情が宿ってゐるからなんだろう。

 しかしなぜ他ならぬ〈鼠捕り男伝説〉が〈一三〇人の子供の失踪伝説〉と結合したのだろうか。この点についてはいずれの伝説にも〈笛吹き男〉がいるという事実に注目させられる。シュパヌートは〈笛吹き男〉の存在がこの二つの伝説をつなぎとめた接点であったとみている。〈笛吹き男〉という名を耳にした時、当時の人々は直ちに遍歴して歩く放浪者、そして〈鼠捕り男〉などのことを想い出したことだろう。すでに紹介したように、〈鼠捕り男〉はヨーロッパ各地で伝説となっているのである。 253頁

(・・・)社会の下層で呻吟する庶民の苦しみは、そのものとして直接に言葉に表現するにはあまりに生々しく、表現されたとたんに庶民には嘘としてみえてくる。庶民はまさに苦しみの底にあったが故に、その苦難を無意識のうちに濾過させ、つきはなした形でひとつの伝説のなかに凝縮させる。こうして古来人々の恐怖の的であった〈笛吹き男〉や〈鼠捕り男〉でさえ、庶民にとっては自分たちの怒り、悲しみ、絶望をともに分ちあう存在となる。〈鼠捕り男〉が庶民と同じ裏切られた存在として描かれていることは、この時の庶民の絶望の深さを示していると私には思える。 258-259頁