手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

別の道もある

民主主義の危機

7月8日、安倍晋三・元首相が参院選の街頭演説中に銃撃されて死亡した。この10年の政治は安倍VS反安倍という図式で展開された。ぼくは明確に反安倍であり、政権交代が必要と考えてずっと野党共闘を応援してきた。安倍氏のことを政治家としてはまったく評価しないが、このような死に方をしていいはずがない。

去年の10月に岸田文雄政権が発足したとき、岸田首相は「民主主義の危機だ」と言った。これは安倍(&菅)政権の国会軽視、政治の私物化、文書主義の破壊などを指してそう言ったのである。

安倍政権は反対者の意見を聞かなかった、たくさんの不支持者を含めて全体を代表するという態度を示さなかった。とにかくもう、勝てば官軍というやりかた。どんな失政も、疑惑も、説明をせず、責任をとらず、選挙に勝てば「国民の信を得た」で押し通した。このような政権運営は公共・公平・公正という観念をいちじるしく棄損し、政治への信頼を致命的に損ねた。まさに、民主主義の危機だと思う。

今回の事件を受けて岸田首相は、「民主主義の根幹たる選挙が行われている中、安倍元総理の命を奪った卑劣な蛮行が行われた。断じて許せるものではなく、最も強い言葉で非難する」と語った。完全に同意する。

しかし岸田首相、民主主義の根幹たる選挙というものを安倍政権がどれほど卑怯に利用してきたかも忘れないでもらいたい。解散権の恣意的な乱用しかり、メディアを恫喝して選挙報道を減らし低投票率化をはかって組織票で勝つという戦略しかり。憲法を改正するならば、衆議院の解散権になんらかの制限をかけることを第一にしてほしい。

選挙演説中の元首相を銃殺するという行為は断じて許せるものではない。しかしそのような悲劇の死を遂げたからといって、安倍政治がもたらした民主主義の危機が消えてなくなるわけではない。ことに公文書の廃棄や改竄、データの捏造などの文書主義の破壊は、民主主義への攻撃どころではない、文明の否定だ(野蛮)。断じて許せるものではない。最も強い言葉で改めて非難する。

安倍政権の完成(は御免だ)

でも、安倍政権の批判的総括はできないかもしれない。安倍氏銃弾に倒れるのニュースを見て、ぼくはすぐに哲学者・國分功一郎さんの今年5月の次のツイートを思い出した。

安倍元首相の死は、あまりに悲劇的である。かわいそうである。「桜を見る会」問題、モリ・カケ問題、公文書改竄問題等々を問うことは永遠に不可能になったかもしれない。つまり、このあまりにかわいそうな死によって、安倍政権は完成してしまうのではないか。

國分さんのツイートは、安倍氏の後援会が主催する「桜を見る会」の前夜祭にサントリー酒類を無償提供したゐたことが発覚したことを受けてなされたものだ。

前夜祭はホテルニューオータニで行われ、参加費は一人5000円だった。そんな安い値段で出来るはずがないので、本当の値段はもっと高く、事務所が差額を補填してゐたのではないか。とすると有権者への寄付に当たるので公職選挙法違反の疑いが出てくる。また後援会の政治資金収支報告書には前夜祭の収支に関する記載がなかった。支出があるのに記載してゐないなら政治資金規正法違反となる。

疑惑が本当ならたいへんなので、安倍氏は「一人5000円という価格はホテル側が設定した」「全ての費用は参加者の自己負担であり、安倍事務所、後援会の支出は一切ない」「会費は参加者が直接ホテルに支払った形で処理したので、政治資金収支報告書に記載する必要はない」と説明した。が、それを証明する領収書も明細書もないという。

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やがてこの説明がすべてウソであることが明らかになった。実際は事務所が補填してゐたのである。衆院調査局によれば安倍氏は国会で118回の虚偽答弁をした。この事件への司法の裁きは公設秘書への罰金100万円だけで、安倍氏は不起訴となった。政治的責任も取ってゐない。安倍氏は秘書の不正を「知らなかった」そうだ。

これが前夜祭に関する問題である。「桜を見る会」問題はもうひとつ「本会」についての問題があり、こちらは政治の私物化にかかわる。

第二安倍政権がはじまってから「桜を見る会」への参加者が増え続け、予算も膨らみ続けた。「桜を見る会」の主旨は各界で「功績・功労」のあった人たちを慰労し親睦を深めることであり、費用はもちろん税金である。だからここに呼ぶのは「お仲間」ばかりではいけないし、常識的・社会的通念からいって「まとも」な人でなければならない。

が、新聞赤旗のスクープによって、地元山口の支援者が数百人規模で招待されてゐたことがわかった。さらには反社会的勢力が参加してゐたことや、マルチ商法を展開していた「ジャパンライフ」の元会長が招待されてゐたことが明らかになった。これはいけない。

いつ誰が呼ばれてゐたのかを検証しなくてはならないので、日本共産党の宮本徹議員が資料要求を行った。と、なんと名簿は宮本議員が要求したまさにその日に(2019年5月9日)シュレッダーで廃棄されてゐた。たまたまその日にシュレッダーが空いてゐたのだそうだ。それなら電子データがあるはずだというと、電子データも廃棄済であった。復元できるはずだが、しないらしい。

安倍政治とはこういうものだった。森友学園問題では公文書の改竄が行われ、他には基幹統計の書き換えによる二重計上なんていうのもあった。モラルハザード統治機構の劣化は深刻である。東京五輪やコロナ対策で何兆円もの税金が投入されたが、使途不明金が大量にあるそうだ。これから防衛費を倍増するというが、ちゃんと使えるのか。

こんな国は亡びるに決まってゐる。どこかの国が攻めてくるまでもなく自壊するほかない。安倍政権を完成させてはならない。

別の道もある

安倍氏暗殺の動機は、いま報道で知りうる限りの情報を見る限り、宗教にからんだ怨恨と、自身の不遇からくる行き場のない鬱屈とであるようだ。怨恨と鬱屈とが象徴的人物たる安倍元首相において焦点を結んだ。背景にあるのは、政治とカルト宗教との結託、およびここ30年の経済的停滞(希望を持てない社会)。

山上容疑者(41)の母親は韓国が発祥の旧統一教会(現在は世界平和統一家庭連合)の元信者であり、教会に財産をとられて自己破産し、家庭が崩壊した。そのため犯人は旧統一教会を怨んでゐた。容疑者は大学を中退後、様々な職を転々して長期的なキャリア形成ができず、犯行時には60万円の負債を抱え、経済的にも追い詰められてゐた。

安倍元首相は祖父・岸信介の代から教会と深い関係にあり、機関紙の表紙を何度もかざったり、集会にビデオメッセージを送るなどしてゐた。犯人ははじめ旧統一協会の幹部を襲うつもりだったがうまくいかず、この関係を知り、狙いを安倍氏に切り替え、奈良の西大寺駅前で決行した。

事件以降、カルト宗教に詳しいジャーナリストや霊感商法と戦ってきた弁護士が積極的に情報発信をしてゐて、見るにつけ聞くにつけ、自民党と旧統一教会の関係が想像以上に深いことに驚くばかりだ。安倍政権で関係がより深くなったことは確かなようだ。旧統一協会の活動による被害は甚大だ。家族と人生を破壊する。マスコミは厳しく追及すべきだし、政治家は関係を清算すべきである。

日本の報道の自由度ランキングは民主党政権時代に11位まで上がったが、2022年には71位にまで順位を下げてゐる。安倍政治の恫喝に屈し、マスコミの批判精神はすごく萎縮してゐる。自民党政治から利益を得たり、そのシステムのなかでキャリアを築いてきた体制側の言論人が問題の矮小化と論点ズラシをはかる様は実に醜悪だ。

安倍氏暗殺の衝撃は日本人と日本社会にどのような影響を与えるだろう。信じられないような大事件であるが、事件二日後の参院選の結果にはさしたる影響を与えなかったように見える。勢力図は事前に予測されてゐたものと大きな変わりはなく、投票率は数パーセント上がったが、それでも50%を少し超えただけで依然として低い。

これはなにを意味するのだろうか。この事件は日本人の集合意識を大きく揺さぶったはずだ。その感情のうねりが現実をどう変えるか。地震から津波が来るまでに間があるように、それはまだ彼方にあるのかもしれない。

ぼくとしてはこれを機に日本における「反共イデオロギー」が力を失い、本当の意味での戦後レジームからの脱却への機運が盛り上がることを願ってゐる。戦後レジームそのものであるような安倍氏が「戦後レジームからの脱却」を掲げ愛国者として通ってゐた。そういう状況がそもそも狂ってゐるのだ。

その狂った日本的状況の滑稽なあらわれが、安倍氏のコアな支持層であったアジア蔑視(嫌中・嫌韓)言論人達である。安倍氏と旧統一教会とのつながりがこれほど露わになってしまったいま、彼らの実存は、その内的整合性はどうなるのだろう。その無理さが、なにか不穏な事件にでもならないといいのだが。

自民党体制がいくらぼろぼろになってもそれに代わる野党が存在しないなら政権交代は不可能だ。だからぼくは引き続き野党共闘を応援する。ぼくはそのように考えるのだが、問題は、結局のところ国民の多くは、自民とか野党とか、ひょっとしたらカルトとか暗殺にさへ、たいして関心をもってゐないのではないかということだ。

思考家・佐々木敦さんのツイートを置く。

最大の問題はこれだと思う。自分のことで精一杯で、公共領域のことに関心をもつ余裕がない。いまここの現実に、がんばって、しがみつくのに精一杯。野党がだらしないとかいうことのだいぶ手前に本当の問題があると思う。

安倍氏は首相在任中に、それこそ呪文のように「悪夢のような民主党政権」「この道しかない」と言い続けた。これはウソだ。民主党政権は悪夢ではなかったし、別の道だってあるのだ。

個人の人生においても、社会のありかたにしても、国家の体制にしても、できることはたくさんあるし、道もたくさんある。それをいまの日本人は信じてゐない。信じるということをどうして回復できるか。むづかしい問いだ。

日本はあと数十年しづかに没落していくほかないように思える。と同時に、ちょっとしたことで世界は変わるものだし、どんな状況でも挽回はできるものだとも思う。どちらも本当だ。

この道しかないなんてことはない。別の道があるはずだ。