手探り、手作り🐘

物には時節、待てば海路の日和あり🚢

にごりえ

6月12日、土曜。家事をすませ、昼過ぎに家を出て、日暮里に向かう。谷中を歩く。他にもいろいろ行ってみたいところはあるけれど、谷中があまりに心地よいのでまた来てしまった。しばらく谷中に通うことになりそうだ。環境を変えるべき時のような気がしてゐる。この街に住みたい。賃貸サイトを渉猟しはじめた。良縁がありますように。

駅を出て、御殿坂を歩き「お菓子処 かみくら」でどら焼きとモナカを買う。あんこがおいしい😋 経王寺の脇の細道を通って北西へ。富士見坂なる坂がある。いい日和には富士山が見えるらしい。

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富士見坂

さらに北西へ進むと諏方神社が見える。入る。これはいい神社だ。元久2年(1205)鎌倉時代の創立、文安年間には太田道灌による神領寄進があり、谷中の総鎮守として広く信仰をあつめてきたとのこと。

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諏方神社

気持ちいいので境内に座って「にごりえ」を読む。かなりいい。「たけくらべ」より好きかもしれない。主人公・お力は自分がいつか気違いになってしまうのではないかと怖れてゐる。読んでゐると、ああこの人は壊れてしまうよ、と不安になる。

(・・・)どうかしたか、また頭痛でもはじまつたかと聞かれて、何頭痛も何もしませぬけれどしきりに持病が起つたのですといふ、お前の持病は肝癪か、いいえ、血の道か、いいえ、それでは何だと聞かれて、どうも言ふことは出来ませぬ、でも他の人ではなし僕ではないかどんなことでも言ふてよささうなもの、まあ何の病気だといふに、病気ではござんせぬ、ただこんな風になつてこんなことを思ふのですといふ、(・・・)

心の様子がおかしい、なんだか気が塞ぐ、人と話したくない、病気ではない、「ただこんな風になつてこんなことを思ふのです」。わかる。凄い表現。

さらに歩くと西日暮里だ。道灌山通りを南西へ進み、ちょっと行ったところで左に折れる。この道を六阿弥陀道という。左手に青雲寺が見える、別名「花見寺」。なるほど、まあきれいなお寺さんだ。

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青雲寺(花見寺)

阿弥陀道を進んで谷中銀座に出てもよかったのだが、青雲寺を出たところでいい感じの横道を見つける。この横道があまりにもいい感じだったので、ここは折れるべきだと判断し、入る。垣の花を見てゐる上品なお爺さんがゐたので声をかけてみる。

この道を行くとよみせ通りに出るわけですね、はいそうですよ、あちらに見えるのがよみせ通りですよ、この道に名前はありますか、この道に名前はありません、ところでそれは何の本ですか、ただの地図ですよ、へえそうですか、そんならお兄さん、もっといいものを差し上げますよ。

と言ってお爺さんは道沿いにある質屋に入り、奥に引っ込んでしまった。店主らしい。しばらく待って、どうぞこれをお持ちください、と手渡されたのは、「田戸亀翁 遺稿抄」と題する小冊子である。田戸亀翁はお爺さんの祖父・田戸亀太郎さんのことだそうだ。第一頁に明治40年頃の谷中の略地図が、残りの頁には「谷田田甫を挟んで」という歴史エッセイが印刷されてゐる。

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そんならお兄さん、もっといいものを差し上げますよ。

聞けば、どうやら田戸さんはいわゆる地元の名士とでもいうべき方のようだ。田戸家の先祖が谷中に居住を始めたのは1200年頃、鎌倉時代のことで、だから一族が集まって会食するときなどに「江戸っ子はよそものだ」「徳川は後から来たんだ」なんて話になるのだという。貴重な資料をいただき、また愉快なお話を聞かせていただき、ありがとうございました。

よみせ通りを歩く。アイスコーヒーを飲みたい。カフェっぽい外観の店を発見する。「ignis」と書いてある。入口に若いカップルがゐる。中を覗こうとすると青年に、ここおいしいですよ、と声をかけられる。コーヒー屋さんですよね? と聞くと、今度はお嬢さんが、はい、あとパンナコッタもありますよ! と言う。なんて感じのいいカップルだろう。「花束みたいな恋をした」のムギ君とキヌ嬢みたいだ。幸せにね🥰

花束カップルにこう激推しされては入るほかあるまい。女性スタッフと男性スタッフがゐる。この二人も花束カップルに負けず劣らず素敵である。女性スタッフは優雅で声がいい綺麗なお姉さんで、男性スタッフは背が高く笑顔がさわやかなハンサムボーイである。

続けざまにいい男・いい女に会ったせいで気が動転してしまったのか、うっかり1500円のアイスコーヒーを注文してしまう。もちろんおいしかったのだが、どうせぼくは味音痴でありグルメでもないのだから、700円のコーヒーでよかったのではないか、と後悔したことはここだけの秘密☕

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コーヒーっていいよね。

谷中銀座商店街を歩いて駅のほうへ。途中で右に折れて谷中霊園に行き、天王寺の境内で「にごりえ」を読み終える。真人間になれない男と、自分の背負った業に押しつぶされてしまう女。苦しくなるほど凄い作品だ。

 お力は一散に家を出て、行かれるものならこのままに唐天竺の果までも行つてしまひたい、ああ嫌だ嫌だ嫌だ、どうしたなら人の声も聞えない物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない処へ行かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲しい心細い中に、いつまで私は止められてゐるのかしら、これが一生か、一生がこれか、ああ嫌だ嫌だ(・・・)

今の世の中、お力の独白に共感する人は多いのではないか。ぼくたちは閉じ込められてゐる。家にではない、この閉塞する日本社会にだ。行き詰まって、息が詰まるから、生きることが、こんなに苦しい。コロナ禍で格差は拡大し、もともと弱い立場にゐた人のところへ、さらに皺寄せが来てゐる。

東京五輪をやるとして、その後の日本がどうなるのか、不安だ。