手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

年齢を重ねると。

先日、ある人と電話をしてゐて「年齢を重ねると、いろんなことを断言できなくなってくるよね」という話になった。「断言」ではなく「判断」だったかもしれない。とにかく、なんであれ、物事や自分や他人について、これはこうだ、こういう意味だ、こういう人だと断言/判定できなくなってくる。

もちろん、なにかを言ったりしたりするためには暫定的な意味付けをしてゐるのだけれど、年をとってくると、何事も多面的かつ多層的であって、時間が経てば意味が変わるし、自分に見えるものしか見てゐないのだということがわかってくるので、「ううむ、しかしそうではないかもしれんぞ」という逡巡が増える。そういう話だ。

たとえば、ぼくがある人を嫌いなのは、ぼくがその人にコンプレックスを感じて勝手に被害者意識をもって嫌ってゐるのかもしれない。逆に相手のほうがぼくのなにかにコンプレックスを感じて、攻撃的な態度をとってゐるのかもしれない。誰もがコンプレックスをもってゐて、それを解消することは多くの場合むづかしいのだから、責めることはできない。誰にでも事情がある。

社会生活では常識人でしっかり活躍して評価もされてゐる人が、家庭内では傲慢かつ無神経な態度で家族を傷つけてばかりというのはよくある話だ。人間はみんなデコボコで、時と場合によって、相手によって、そのデコボコの現われかたと見えかたが異なり、そのすべてを知ることはできない。

あらゆる長所は短所となり得、逆もまたしかり。ある人にとってはその人の美点に見えるものが、別の人にとっては欠点に見えたりする。特定の状況で素晴らしい能力を発揮するその人の資質が、別の状況ではまるで役に立たず、逆に周囲に害を及ぼすことだってある。

それも時間によってどんどん変化していく。年を重ねると、そういう多面性・多層性について知る経験が増えるので、どんどん断言/判定できなくなってくる。

人について、自分について、あるいは様々なものやことについて、自分はほんの一部しか知り得ない。ほとんどなんにもわからないまま死んでいくのかもしれない。だから「年齢を重ねると、いろんなことが断言できなくなってくるよね」となる。

若い頃は、何事かを成し遂げた人や、実現した人、成功した人が偉いのだと思ってゐた。それを目指すべきだし、自分もなにか出来ればと思ってゐた。けれど、それも素晴らしいのだけれど、自分の資質のせいで人を傷つけたり、辛いときに助けてもらったりということを何度も経験して、ちょっと違うぞと考えるようになった。

「善き人」であることがいちばんむづかしい。自分がどんな姿でゐたいのか、それを忘れずに、人とは関係なく、どんな状況でも感謝を忘れず、自分を愛してゐる人。人を不安な気持ちにさせず、恐れを抱かせない人。そういう人は、その存在そのものが相手のこころをしづめてしまう。

そういう善き人の善なるエネルギーが、この世界をなんとか「この程度」につなぎとめてゐるのではないだろうか。