「そのうちなんとかなるだろう」内田樹 2019 マガジンハウス
内田樹先生の自叙伝。
「師弟システムのダークサイド」についての記述、ほんとうにそうだと思った。ぼくは稽古事が好きでいろんな先生についてきたけれど、弟子の成長を阻害する指導者ってけっこうゐる。
多くの師は無意識のうちに「弟子が自分に劣る」状況を作り出そうとします。
そういう設定にしたほうが教育的には有効だからです。
「絶対に乗り越えられないほどに卓越した師についている」と信じ込んだほうが弟子にとって術技の向上にとっては効率的です。
これは経験的に確かです。師に「これをしろ」と命じられたことは、何も考えず、愚直に稽古する弟子のほうが、「先生は『これをしろ』と言ったが、自分はあまり意味がないと思うので、やらない」というような小賢しい弟子よりも上達する。
絶対に上達する。当たり前です。
それは武道だけに限りません。芸能の世界でも、学問の世界でも同じです。
ただ、このシステムには「ダークサイド」がある。
それは、つねに弟子が「師を乗り越えることはできない」と思い続けるように仕向けるために、弟子が上達しないように、弟子の成長を無意識のうちに阻害するように先生がふるまうリスクがあることです。
そういう先生は残念ながら、かなりの頻度で登場してきます。
先生自身には「そんなこと」をしている気はないのです。
でも、弟子が自分を追い抜かないように、ある段階より上に行かせないように、弟子のやる気を挫いたり、弟子の自信を失わせるようなことを無意識にしてしまう。 89-90頁
よくわかる。こういう先生に出会ったら逃げるのが一番。ぼくは舞踊教室を開くことを目標にしてゐるのだけれど、こうはなりたくないものだ。ほんとうに。
武運の話。
それを「強く念じたことは実現する」というふうに言うこともできますし、「自分の思いが実現できそうな環境や人間関係」に直感に導かれて自分から近づいていっているとも言えます。
さきほどの渡し船の喩えを使うなら、その状況は「川を渡りたいと思っていたらちょうどそこに渡し船が来た」とも言えるし、「渡し船が来るところにぼんやり立っていたら、船頭に声をかけられ、『乗らんかね』と言われたので、『そう言えば川を渡ってみたいような気がするな』と思った」という順番でことが起きた可能性もある。
僕はなんとなく武運というのは後者ではないかという気がするのです。
どんなとき、どんな場所でも、僕たち一人ひとりには、自分にできること、自分にしかできないことがあります。とりあえず、その場にいる他の誰もできないことが、自分にだけはできるということがある。
でも、ふつうはそれがなんだかはわからない。
修行を積むと、「今、ここでだと、私だけができること、他ならぬ私が最もそれに適した仕事がある」ということがわかるようになる。
そのときに、ふっとそれが「自分が前からずっとしたいと願っていたこと」のように思えてくる。 96頁
いい話だなあ。この感覚をなんとかつかみたいと思ってゐる。「そう言えば川を渡ってみたいような気がするな」ではじめたことが「自分が前からずっとしたいと願っていたこと」のように思えてくる。これは真実だと思う。修行を積むと、ほとんどの行為がこういうものになってくるのかしら、、、どういう境地だろう。
次は内田先生の愛。「その人の一番いいところを見る」。
人に質の高いものを生み出してほしいと思ったら、いいところを探し出して、「これ、最高ですね」「ここが、僕は大好きです」と伝えたほうがいいに決まっている。
少なくとも僕はそうです。批判されたら落ち込む。ほめられるとやる気になる。当たり前ですよ。
肺腑をえぐるような批判をされてボロボロになるのは、もちろんその批判が「当たっている」からです。
でも、批判が当たっているからと言って、それで次の仕事に向かって「さあ、やるぞ」と意気軒高になるということはありません。
同じような失敗をしないように警戒心は高まるでしょう。欠点は補正されるでしょう。でも、そのせいで魅力的な部分がより開花するということはありません。
絶対にありません。
批判を受けたせいで魅力が増すということはないんです。
というのは、才能ある人の魅力というのは、ある種の「無防備さ」と不可分だからです。
一度深く傷つけられると、この「無防備さ」はもう回復しません。その人の作品の中にあった「素直さ」「無垢」「開放性」「明るさ」は一度失われると二度と戻らない。
だから、この人にはまだまだ発現されていない才能があると思ったら、この人にはもっと傑作を創り出してほしいと思ったら、骨がきしみ、血が出るような批判をして、欠点を補正させるよりは、どうやったら「傑作を創る気」になってくれるか、僕はそれを考えます。 186-187頁
《一度深く傷つけられると、この「無防備さ」はもう回復しません。》という箇所。大事だ。ときどき「ひょっとしたらこの人はもっといろんなことに挑戦したいし表現したいと思ってゐるのに、人生のどこかで深く傷つけられたためにそれが出来ないのではないか」と感じさせる人に出会う。いや、程度の差こそあれ、みんなそうかもしれない。
自分も誰かを致命的に傷つけたことがあるかもしれない。自覚的でありたい。人を傷つけない、不安にさせない、屈辱を与えない。それがいかにむづかしいか。
最後の「どちらへ行っても同じ目的地に」もよかった。人生の分岐点でどちらを選んでも、結局は、同じようなところにたどり着くのだという。
多元宇宙のそれぞれの世界にそれぞれの僕がいるとしても、どこでもそれほど変わらない人生を送っている、そんな気がします。
「人生の岐路で、左右どちらに行くかで悩む」というのはあまり意味がないよ、ということをお話ししましたけれど、それは右に行っても左に行っても、人間が同じである以上、行き着く場所はそれほど変わらないということです。
結局、蟹が甲羅に合わせて穴を掘るように、僕たちが選ぶ人生も自分の器に合ったものにしかならない。 205-206頁
ぼくもいいかげん34になってそれなりに経験をつんで、自分のどうしようもなさがよくわかり、人生について物思いにふけることが増えた。どういう状況でどういう選択をしても、いかにも「自分らしい」。うまくいくことも失敗することも、すべてが「自分らしい」。どっちへ行っても、結局、同じ場所にたどり着くのではないか。その過程で、いいことがあり悪いことがある、それだけのことだ。そんなふうに感じてゐる。
ちょっと違うかもしれないけれど、バガヴァッド・ギーターの
「たまたま得たものに満足し、相対的なものを超え、妬み(不満)を離れ、成功と不成功を平等(同一)に見る人は、行為をしても束縛されない。」
はそういうことをいってゐるのではあるまいか。
ぼくたちは成功したら喜んで、受難にあったら落ち込むけれども、もっと遠く、その人の人生の意味というところからみれば、同じことなんだと。そして、「人間が同じである以上、行き着く場所はそれほど変わらない」のだと。
どうかしら。違うかな。