夏目漱石の「道草」は主人公の、
「世の中に片付くなんてものは殆どありやしない。一遍起つた事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変わるから人にも自分にも解らなくなるだけの事さ」
という印象的なセリフで終わる。
「道草」の前に書かれた「ガラス戸の中」というエッセイにおいて、漱石は「一遍起つた事は何時までも続く」ことについて、より生々しい言葉で語ってゐる。
病に臥せってばかりの自分の健康状態をあらわす言葉として、これまで「どうかこうか生きてゐる」という一句を使ってきたが、ある人から「まあもとの病気の継続なんでしょう」と言われて「継続」という言葉が気に入った。それからは「病気はまだ継続中です」と答えるようになった。
漱石はこの「継続」という言葉から哲学的な思索を展開する。
欧州では戦争が続いてゐる。今こうして人と話したり文章を書いたりしてゐられるのは、天下が太平になったからではない。たまたま塹壕のうちの平和を享受してゐるにすぎない。この戦争もおそらくいつの世からの継続なのだ。それがいつどこで始まって、どう曲折していくかはついぞ知ることができないのだ。
そして、人の心の奥にも、自分さへ気付かない継続中のものがあるという。
すべてこれらの人の心の奥には、私の知らない、また自分達さへ気の付かない、継続中のものがいくらでも潜んでゐるのではなからうか。もし彼等の胸に響くやうな大きな音で、それが一度に破裂したら、彼等は果たしてどう思ふだらう。
彼等の記憶はその時もはや彼等に向つて何物をも語らないだらう。過去の自覚はとくに消えてしまつてゐるだらう。今と昔とまたその昔の間に何らの因果を認める事のできない彼等は、さういふ結果に陥つた時、何と自分を解釈して見る気だらう。
所詮我々は自分で夢の間に製造した爆裂弾を、思ひ思ひに抱きながら、一人残らず、死といふ遠い所へ、談笑しつつ歩いて行くのではなからうか。ただどんなものを抱いてゐるのか、人も知らず自分も知らないので、仕合せなんだらう。
三十回(表記を若干改め、改行を加えました)
ぼくは誰かが自死したニュースに接するたびに、
「我々は自分で夢の間に製造した爆裂弾を、思ひ思ひに抱きながら、一人残らず、死といふ遠い所へ、談笑しつつ歩いて行くのではなからうか」
というおののくような物凄い言葉を思い出す。人間は継続中の歴史のなかにひょいと産み落とされる一断片にすぎない。そして生きはじめたその時から、いつ破裂するとも知れない「爆裂弾」を抱えてゐるのだ。それは夢の間に製造されたもので、自覚もなく因果も語らない。それがなんなのか、自分も他人も知らないのである。
先ごろ亡くなった竹内結子さんが主演したドラマ「あすか」のオープニングテーマ曲「風笛」は美しい曲だ。地上にはこのように天上的に美しい音楽があるが、それも爆裂弾の大きな破裂音には吹き飛ばされてしまうものなのか。哀しい。これまでファンだという意識をもったことはなかった。なのに、とても哀しい。
天上での平安を祈ります。