手探り、手作り🐘

物には時節、待てば海路の日和あり🚢

小林は自分でも知らぬ間に正直に答へてゐた。

夏目漱石の「明暗」に続いて、水村美苗の「続 明暗」を読みなおしてみた。初見時には見事な文体の模写、伏線の回収、痛快に面白い展開といった数々の長所に感嘆とするばかりで「これは最高だ!」と思ったものだったけれど、再読してみると自分の中の評価が正反対に振れた。短所ばかりが目について苦しい気持ちだった。

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短所は長所の裏返しだ。「面白い」筋書きをつくり、きれいに伏線を回収して全体をうまくまとめることに成功してゐるという長所が、漱石の「明暗」における最大の魅力を殺してゐるように感じた。他人の小説の続きを書いたという性格の作品に対してこのような評価をくだすのはフェアではないかもしれないが、そう感じたのだから仕方がない。

ぼくは漱石の「明暗」についての感想で次のように書いた。

「自然/天」が「人間/私」を動かしていく、その様を堪能した。

そして、すべてを差配するものとして「自然/天」が浮かび上がってくる。書かれてあるのはエゴイズム大戦争で、人間の我執がただただ厭らしいのだけれど、その執拗な模写が突き抜けたところに、巨大な「自然/天」が感じられる気がするんだ。

ぼくは「自然/天」を感じさせることこそが「明暗」の最大の魅力だと考えてゐる。そして、水村氏の「続 明暗」にはそれが乏しい。それは未完の作品を書き次いで完成させるというミッションの実現のためには避けられないことだったかもしれないが、欲張りを承知のうえで、正直とても残念な気持ちだ。

水村氏は登場人物をあまりに恣意的に動かしすぎではないだろうか。読んでゐて「もてあそぶ」という言葉が浮かんだ。具体的には、津田をいぢめすぎてゐる。卑怯な津田を裁いて、罰してやろうという作者の意図があまりに露骨だ。「根本的の治療」のために、この男を叩きのめし、こてんぱんにやっつけてやろうという気持ち。

初見時には清子との対話がとっても素晴らしいからそこまで気にならなかったけれど、再読してみるとこの点がどうにも耐えられなかった。それはお延についても言える。水村氏は、お延をもまたあまりに苦しめすぎてゐる。ここまでボロボロにしなくてもいいのではないか。そもそも、お延についての伏線の回収の仕方はこれが妥当だろうか。

漱石の「明暗」で、お延は「いつか一度このお肚のなかにもってゐる勇気を外へ出さなくっちゃならない日が来るに違いない」と言ってゐた。これはいったいどうなるはずであったか。「続 明暗」でのお延の行動は「勇気を外へ出した」ことになるだろうか。ぼくにはそう思えない。

「続 明暗」でのお延は不安と焦燥から湯治場に向かい、そこで津田のあまりの情けなさに絶望する。そうして最後は自然への没入による宗教的な救いのようなものを得るということになる。これはいただけない。お延は「続 明暗」においてずっと周りの人間に振り回されてゐるだけであり、「勇気を外へ出した」と言いうる行動をしたようには思えない。

またこれはかなり大きな問題だと思うのだが、「続 明暗」では津田とお延がきちんとした会話を交わしてゐない。もちろん話す場面はあるけれど、二人ともほとんど錯乱状態でまともではないんだ。

また最後に自然と一体化してしまうというのは「明暗」の主題からいっておかしくないだろうか。「明暗」が描いてきた「自然」は滝とか森とかいう自然ではないんだから。あの終わり方だとお延以外の人間はほったらかしで、完全にお延一人を主人公に変えてしまったかっこうだ。「続 明暗」は筋の面白さを追求するあまりに「明暗」がもってゐた奥行と多面性、人物の深みと自由さを大きく損ねてゐる(そんなことは作者は百も承知と思うが)。

お延が湯治場に行く。これは漱石も絶対にそう考えてゐたはずだ。しかし小林とお秀はどうだろうか。「続 明暗」での彼らの登場はいかにも「とどめを刺す」感じがしてなんだか嫌味に感じた。

ぼくが勝手に構想すると、湯治場に行くのはお延だけで他の人はこない。

津田は清子との対話において自分の卑怯さに打ちのめされて例の滝に向かう。もちろん津田には自死する勇気なんかない。けれど雨と霧と滝との濛々たる雰囲気に幻惑されて、さらに術後の痛みも手伝って、一瞬だけ本気で「自分のような人間は恥ずかしくて生きちゃをれない」くらいの気持ちがおこる。そこで傷口が開いて一気に出血し意識を失う。

そこでお延が助けにくる。津田をかついで宿に連れて帰る。そこで意識不明の津田を横にして清子とお延との静かな対話が行われる。津田が目を覚ました時、清子はもう帰ってゐる。

津田とお延が二人で東京に戻る。帰路、二人は今回の事件について隠蔽をはかるために計画を練る。すべての策謀者である吉川夫人の鼻を折るためにウソをついてやろうというのだ。湯治場に清子などゐなかった。津田と清子は会わなかったことにするのだ。

吉川夫人にそのことを伝える。ここでお延が本当に肚から勇気を出す。お延&津田と吉川夫人との壮絶なバトルの末にお延&津田が勝利する。二人は帰宅し、吉川の後ろ盾を失ったことにいささかの不安を覚えながらも、ウソの共有によって深まった夫婦の関係と勝利の喜びにひたりながら、静かに茶を飲む。完。

ついつい自分の妄想を書いてしまった。「続 明暗」についてあと少し。最も素晴らしいと感じたのは次の記述だ。

二百八十七回

(・・・)今、お延には小林といふ人間など存在しなかつた。自分すら存在しなかつた。彼女を突き動かしてゐるものは、是が非でも真実相を知らねばならないといふ必然丈であり、小林を見詰める彼女の眼附きには、相手に頭を下げようといふ世間並の配慮が生じる余裕もなければ、相手に頭を下げることを恥に思ふ余裕もなかつた。其所にはお延の存在を超えた必然がありありと読まれる丈であつた。小林は自分でも知らぬ間に正直に答へてゐた。

「あの朝、お秀さんは、吉川の細君の所に顔を出してゐるんですよ。先生の所に来る前にね」

ここには「自然/天」が見事に描かれてゐる。小林はここで突然いい奴に変ったのではない。つい、思いがけず、我知らず、お延に本当のことを語ってしまう。これはなぜだろうか。「自然/天」がそうさせたんだ。

人間は自分がするつもりのないことをしてしまう。ある意図をもってした行いが、それと正反対の結果となって現れることがある。このような人間の資質と意思と行為との絶妙な綾を描くのが「明暗」の肝だ。

「続 明暗」では上の場面において、そのような天のいたづらが最も良く描かれてゐると思う。そして残念なことに、この天の作用が「続 明暗」では津田とお延に働かないのである。津田とお延がとかく一方向にしか進んでいかない。ここが惜しいと思う。

津田もお延も変わらないかもしれない。しかし変わらないなら変わらないままに、これまでマイナスでしかなかった要素が、なにかの拍子にプラスに転じてしまうという展開があってもよかったのではないだろうか。そのような不思議に奇天烈な人間存在の実相を描いたのが「明暗」という作品だから。