手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り🌴

夏目漱石の「明暗」

夏目漱石「明暗」の何度目かの通読を終えたので、いまの気持ちを書いておきたい。最高にいい気分だ。たぶん、四度目か五度目かになるのだけど、今回が一番よかったかもしれない。「自然/天」が「人間/私」を動かしていく、その様を堪能した。

ぼくはこの小説を個人的に「エゴイズム大戦争」と呼んでゐるのだけれど、人間と人間が出会う、こちらの我執とあちらの我執が衝突する、それを契機として人間が動いて別の人間と出会う、また衝突する。その繰り返しだ。

我執というのは自分の面子とか見栄とか虚栄心とかであって、ほじくりかえせばショーモナイものだ。しかしそのショーモナイものを守ることが誇りであり自尊心であったりするというのが人間のどうにもならないところだ。

「明暗」を読むと、他人から見ればただの見栄でしかないものが、本人からすれば実存のかかった砦なのだということがよくわかる。

明暗における我執の衝突は要するに「マウントの取り合い」である。「他人から見ればただの見栄でしかなく、本人からすれば実存のかかった砦」であるところの我執を、登場人物がそれぞれに踏み倒しにかかり、それを受けて立ち、隙をついて攻勢に出る。それをもう本当に見事な会話劇として描いていく。

また地の文では人物の心理を露悪的なまでに徹底的にあばいていく。文中にしばしば「黙契」とか「黙劇」とかいう言葉が出てくるのだけれど、これがまさにそうで、話してゐない時になされる目だけの会話とかがもうたまらない。とにかく劇的だ。

そして、すべてを差配するものとして「自然/天」が浮かび上がってくる。書かれてあるのはエゴイズム大戦争で、人間の我執がただただ厭らしいのだけれど、その執拗な模写が突き抜けたところに、巨大な「自然/天」が感じられる気がするんだ。

これは光が差し込むとか、救いがある、というのと違うように思う。確かに、人物が打ち解けて、すごくほっこりする場面とか、我執から解放されて晴れやかな気持ちになる瞬間とかも描かれる。けれど、それを描くことがこの小説の眼目ではないとぼくは思う。

この小説では「~でなければならなかった」とか「いつの間にかこうなった」とか「自然は〇〇であった」とか、この種の自然の勢いとして、成り行きとして、勝手にこうなった、他にありようがなかった、という語法が異様に多い。そこに「摂理」みたいなものが見えてくる。

「自然/天」を感じさせること、それ自体が漱石の執筆動機だったのではないか。

いちおうのところこの小説を駆動してゐる「謎」は「津田の根本的の手術」は成功するのか、すなわち津田という人間は変われるのか、という問題だ。

次のような清子のセリフがある。

「でも私の見たあなたはそういう方なんだから仕方がないわ。嘘でも偽りでもないんですもの」一八六回

「そういう方」とは「どういう方」なのかというと、これは小説を読めば誰でもわかるのだけれど、とにかく津田は「そういう方」であって、だから捨てられるんだよと言いたくなるような「そういう方」なんだ。

ところが津田自身は自分が「そういう方」だということに気づいてゐない。自分だけが気づいてゐない。

果して、津田は自分が「そういう方」だということを認め、受け入れ、それと向き合うことができるのだろうか。それは「お延の勇気」次第ということになるはずだが、漱石はそこを書かずに死んでしまったので、ぼくたちはついにその先を知り得ないのだ。

漱石さん、そこで死なんといてくれよ)

津田は変われるのか、変われないのか、漱石は結末を決めてゐなかったと思う。それこそ「自然/天」にしたがって、自分の筆に導かれて書くつもりだったと想像する。

ぼく個人の意見をいえばもうどっちでもいいという気がする。人間は変われることもあるし、変われないこともある、いづれにしても「自然/天」が決めることだ。どっちにしろ同じだ。

それにしてもなんて切ないんだ。近代日本最高の作家の最高傑作が絶筆に終わってしまったとは。タイムマシンが開発されたら、まづ漱石に胃薬を届けるべきだ。