手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「砂の女」安部公房

砂の女安部公房 1962 新潮文庫

新型コロナウイルス感染が拡大して緊急事態宣言が発令された。部屋で自己隔離中の自分にふさわしいような気がして「砂の女」を読んでみた。

これぞ世界文学という感じ。日本語で書かれ日本が舞台の小説だけれど、登場する「男」や「女」、舞台となる「砂丘」「集落」は高度に抽象化されてゐて、神話でも読んでる気分になってくる。

その、流動する砂のイメージは、彼に言いようのない衝撃と、興奮をあたえた。砂の不毛は、ふつう考えられているように、単なる乾燥のせいなどではなくその絶えざる流動によって、いかなる生物をも、一切うけつけようとしない点にあるらしいのだ。年中しがみついていることばかりを強要しつづける、この現実のうっとうしさとくらべて、なんという違いだろう。 17頁

ぼくは自宅に閉じ込められてゐる。

また、東京に閉じ込めれられてゐる。

いや、日本に閉じ込められてゐる。

日本から出て、アメリカに行ったとする。

そうなると、アメリカに閉じ込められることになる。

また別の場所へ行っても、資本主義社会に閉じ込められる。

あるいは、近代文明に閉じ込められる。

究極的には人間社会というものに閉じ込められてゐる。

いつでも、ここではないどこかへ、なんて求めて脱出を願うこころは消えないが、どこへ行っても、人間は「閉じ込められてゐる」のではあるまいか?

そうして、脱出のスリルを楽しんだその後に、実は閉じ込められることそのものを求めてゐる心理がありはしないか。

また閉じ込められた状況に奴隷のように甘んじても、なんらかのなぐさみを見つけられればそれなりに楽しくやってくことができて、実はそれが一番かしこいやりかたかもしれないのだ。

脱出しても、どうせ閉じ込められることには変わりはないのだから。

Wikipediaに刊行時の函表文がのってゐる。

鳥のように、飛び立ちたいと願う自由もあれば、巣ごもって、誰からも邪魔されまいと願う自由もある。飛砂におそわれ、埋もれていく、ある貧しい海辺の村にとらえられた一人の男が、村の女と、砂掻きの仕事から、いかにして脱出をなしえたか――色も、匂いもない、砂との闘いを通じて、その二つの自由の関係を追求してみたのが、この作品である。砂を舐めてみなければ、おそらく希望の味も分るまい。

— 安部公房「著者の言葉――『砂の女』」

二つの自由の関係ともう一つ、この小説の読みどころは男と女、求めずにはゐられない性衝動の展開だと思う。

男も女も出会ったはじめから互いを欲してゐるが、なかなか結び付かない。それは男にも女にも性衝動の上にそれぞれの自意識が覆ってゐて、それが相手にとって邪魔だからだ。

では、それが、どんな具合に解除されるか、そのために何が必要か、どのような手続きがあって二人の性がぶつかりあうか。その考察と追及が異様におもしろい。

そして、ついに交合にいたった、その模写の官能は、個人的にはこれまでの読んだどの小説よりも素晴らしいものだった。

 女が片膝をつき、まるめた手拭で、首から順に砂をしごきはじめた。とつぜんまた、砂崩れがはじまった。家全体が、胴ぶるいしながら、きしみだす。とんだ邪魔が入ったものだ。霧になって降る砂に、女の頭がみるみる白く粉をふく。肩にも、腕にも、砂がつもる。二人は抱きあったまま、なだれが過ぎるのを待つしかなかった。 158頁

人間のすることというのは、閉じ込められた場所で、そこから出ることを夢見ながら、

目の前にいる相手と交わることだけなのかもしれない。

いつかきっと読み返すであろう、すごい作品でした。

安倍公房の作品、ほかもぜひ読みたい。