手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

ボールを先に聞かせることの意味。

寝転がって佐々木敦さんの「未知との遭遇 完全版」という本を読んでゐたら突然ひらめいたことがあったのでメモしておく。

「ひらめいたこと」というのは、カタックのヌリッタ(抽象舞踊)において、観客に先にボールを聞かせることの意味、というか効果について、なるほどそうかと思うことがあった。気づいてみれば当たり前の話なのだけれど、しかしそれは「気づいてみれば」そうなのであって、気づくことによってより深く理解できるのだから、すごく大事なことなのだ。

ボールというのは「Dha Da Thei Ta」など無意味な音をつなげてつくられる一連のリズムパタンのことである。ヌリッタでは多くの場合、ダンサーがボールを発声して観客に聞かせ、次にそれに合わせて踊る。

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この「先にボールだけ聞かせる」ということが、ヌリッタの快の生成にすごく大きな意味をもってゐるということに気がついたのだ。

ボールというのは「音だけの詩」のようなもので、これは「朗誦」するのである。音の種類・リズム・強弱の変化によって言語的な意味はなくてもあるイメージを喚起する。

観客はボールだけを先に聞く。すると、まづボールのみによって喚起されるイメージが脳内に生れる。これは音だけなので視覚的な像を結ばないからぼんやりとしたものなのだけれど、やはりボールとしての全体的なイメージが脳内に浮かび上がる。

そしてその状態で、次にダンサーが踊るのを見る。

すると、さきほど生まれたばかりの全体的なイメージを、ダンサーの身体がはっきりと具現化していくのを見ることになる。ここに強烈な快が生まれる。「なぞっていく」感じがなんともいいのである。

はじめに聴覚刺激によってある像が生まれる、次にダンサーがそれを視覚化する。これは聴覚的イメージと視覚的イメージが完全に一致することの快だ。音によって形成されたイメージがまさに目の前で立体化するという感じなんだ。

反復によってイメージが強化されるということなんだけれど、その反復の次元がまづ聴覚で、次に視覚がプラスされる。

これは大発見だった。

ちなみに「未知との遭遇 完全版」はもちろんカタックとはなんの関係もない本なんだけれど、時間についての議論があって、そこからの連想でひらめいたのだと思う。

なんでも読んでみるものですね。