80年代からゼロ年代までの「ニッポンの思想」を概説する。
スーパー面白かった。新書にしては厚いけれど一気読み。こういう本を書いてくださって多謝多謝。ぜひテン年代の以降の「思想」についても書いてほしいな。
取り上げられるのは主に、
00年代:東浩紀
福田和也の主張として紹介される「天皇抜きのナショナリズム」という概念はとても面白いと思った。「皇室とナショナリズムを分離してみるべきではないか」といってゐる。これはすごい賛成。現在のように「保守」も「リベラル」も天皇を利用したくてしょうがない、自陣に有利なお言葉を求めてゐるという状況は不健全と思う。
90年代の思想は、日本にはそもそも外部なんかないのだという諦念が基調であり、それを肯定するところから「ニッポン回帰」が生じたという流れ。すごくわかる。
「日本」という「悪い場所」に「外部」を認め(られ) ないという「九〇年代の思想」は、たとえ「外部」を持ちたくても「現実」としてどうにも無理なのだという諦念から出発していたのだとしても、それはしかし、あるねじれた形で、やがて「日本」と、その「現在=現実」を、実質的に肯定してゆく振る舞いを導き出すことになりました。 254頁
このどこにもいけない感じ、どんづまり感をぼくはずっと感じてきた。記憶にある最初の社会的事象はオウム真理教による地下鉄サリン事件だ。子供だったけれど、あのときの空気の異様さはよく覚えてゐる。
ただぼくの場合は外部を持てないという諦念がありながら、しかし「日本」と、その「現在=現実」を肯定できずにきたという感じかしら。いまだに受け入れられてゐない。
東浩紀のニューアカからの決別についての記述も興味深かった。「存在論的、郵便的」が中絶したのは「自己言及的な罠」に気づいてしまったからだという。
「自己言及的な罠」とは、何かについて語る(考える)ことが、なぜか「この私」について考える(語る)ことへの反転してしまう、ということです。 295頁
「この私」について問うということは「文学的」ということで、東は「哲学的」でありながらも「文学的」ではない、という思考のありようを模索していくとのこと。
ぼくは東浩紀のような突出した天才とは比べようもない浅学菲才の凡夫だけれども、「この私」について考える(語る)文学的なありようから逃れたいというのはすごくわかる。
こうしていろんなものを読んだり書いたりしてゐるけれども、結局のところ、ぼくは自分のことを知ろうとしてゐるのであり、また自分のことを書いてしまってゐる。なにをどう書いてもそうなる。「この私」から逃れられない。どこまでいっても、なぜ自分はこうであって、ああでないのか。その不思議に打ちのめされて茫然とする。で? っていう。とても苦痛だ。
ぼくが20代後半に入って文学よりも伝統舞踊のほうに関心が移ったのは、「この私」が消える、自己の消滅みたいな感じがするからだと思う。
伝統舞踊は神への捧げものであって、自分を「型」にはめこみ、個人の人生を超えた時間のなかに自己を位置付けることができる。そこがいい。ヒップホップなどストリート系のダンスは「自己表現」の面が強いから、伝統舞踊とは本質が異なるとぼくは考える。