手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

書きたいけど書けない。

書きたいけど書けないというのはいったいなんなんだろうか。いま、仮名遣いについての文章を書いてゐるのだけれど、机に向かうのが苦痛でしかたがない。頭のなかには書きたいものがフンダンにあるのだけれど、それをきれいに順番に出していくことができない。

書きたいけれど、書くのがいやなので、買い物に行ったりタブレットをいぢくったりして逃げてばかりゐる。外的に課せられる締め切りがないので、いつまでも逃げつづけられるわけだ。しかし書きたいという欲求はたしかにあるので、これが苦しいのである。

文章を書くことの困難というのは、頭の中にある考えや情報は、土台があり柱があり、また奥行と高さのある立体的な構造物なのに、文章にするためには、それをいったんほどいて、蜘蛛が糸でも吐くみたいに、それを線にして吐き出していかなければならないという点にある。堆積してゐるものを線的なものに変換して文章というものが出来上がる。

考えてみると、これは実に奇妙なことのように思える。なぜこんなことが可能なのだろうか。なぜ文章というのは線的なのだろうか。まったく不愉快ぢゃないか。ぼくはこうして順番に言葉を並べていくという営みそのものにしばしば強い違和感を覚える。

紙の幅なりディスプレイのサイズなりの制限があるから、改行というものがなされ、段落とか節とかいうまとまりが出来てくるわけだけれど、そういうものが一切ないならば、えんえんと一直線に言葉の連なりが伸びていくだけなのだ。それを順番に読んでいってなにごとかが理解されるというわけだ。この仕組みがうまくのみこめない。

上に「頭の中の立体的な構造物を線にして順番に出していく」などと書いたけれど、実はこれは大嘘なんぢゃなかろうか。それは言語化された知というものがなにか建築物のようなものとしてイメージしやすいからそう感じるのであって、実際のところ言語化される前の知はなにかもっと捉えどころのないものなんではなかろうか。だから立体物を線に変えて並べていくという観念のしかたがそもそもおかしいということになりそうだ。

言語化する能力は現代社会でとても重要であるとされてゐるが、ぼくはしばしば言語化ということそのものに、まやかしめいたものを感じる。語の並びが一直線に伸びていくイメージがとても不気味だ

よくわからないが、とにかく、書きたいことが書けないのでたいへん苦痛である。書くのも苦痛であり、書かないのはなおのこと苦痛である。

仮名遣いに関する文章を書き終えたら、今年のカタック探求のとりあえずの成果として「インド古典舞踊カタックの本質」なる論考を書きたいと思ってゐる。こちらも頭の中にはあるのである。しかし年内に書ける気がまったくしない。たぶん無理だろう。実に不愉快だ。

非常に気楽に書き始めてなんとなくすんなりうまいこと最後までいけたものがある。こういう具合で書き進められたらいいわけだ。ぼくはそのことを考えてゐる。なんの気負いもなく、いかにも自然にさあ書くかという気持ちで書き始めて、当初予想もしなかったようなことを書き、これが存外いい感じに仕上がって、書いたあとに実にいい気持ちになったというものがある。「ワナジャ」とか「凡庸であること。」なんかはそれだ。

ぼくはここに重大な秘密が潜んでゐるように思える。これらを読み返しながら、書きたいけど書けないときと、気楽に書き始めていい気持ちに書き終えるときとの違いについて考える。

要するに「書きたいものがある」というのがダメなんぢゃないだろうか。はじめに「書きたいもの」とやらを想定してしまうから、「堆積してゐるものを線的なものに変換する」という難事に直面することになって、それがとうてい出来そうもないので苦痛に感じるのではないだろうか。

だから、「とくに書きたいものがない(本当はあるのだけれど)」状態で「書くメカニズム」をただ起動させるというのが気持ちよく書く要諦なのではなかろうか(「メカニズム」って響きカッチョイイよね)。

さて、ここまで考えて思いいたったのだが、「とくに書きたいものがない(本当はあるのだけれど)」状態で「書くメカニズム」をただ起動させるとは、いわゆるひとつのルーティン化というやつぢゃあないかね。

なるほどそういうことなのか。これは間違いなさそうだ。