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「内臓とこころ」「生命とリズム」三木成夫

内臓とこころ」「生命とリズム」三木成夫

カタックというインドの古典舞踊をやってゐて、今自分なりに研究を進めてゐる。

練習したり見たり書いたりするなかで、少しづつ自分の理解が深まって、見える世界が変わってきた。

ダンスは何でもそうだけれど、カタックは特に「リズム」構築に重きを置く。

抽象思考・数学が好きなインド人の民族性のためか、その複雑なポリリズムはちょっと見ただけでは何をやってゐるのかさっぱりというくらい重層的。

それが面白い。

ある時、不意に「リズム/かたち/いのち」という三つの概念の連なりがすっと頭に浮かんだ。

これだ、と思った。

宇宙のリズム、生命のリズム。いたるところのリズムがある。

時間を分割したものがビートであり、空間を分割したものがかたちである。

分割とは、すなわちリズム。時空はリズムによって生まれる。

ビート(時間)とかたち(空間)を身体によって示すものがダンスだ。

そして、そこに私たちは「いのち」を見る。

このような「リズム/かたち/いのち」について、それらの成り立ち、構造、関係性について考えたいと思った。

三木成夫のことを思いだした。

学生のころ「胎児の世界」を読んで感銘を受けた。

たしか三木は、宇宙のリズムと生命のリズムについて書いてゐなかったか?

そういうわけで「内臓とこころ」と「生命とリズム」の二書を手にとった。

ビンゴ!

まさに、ぼくが考えたいことについて、抜群に面白く、普遍的・根源的なことがらが、詩情に満ちた言葉で語られてゐた。

若い頃の読書というのはいいものですね。

ふっと思い出して「あ、これってあれぢゃない?」となって、点と点がつながるようなことがある。

そういう読書というのは至福の時間。

 われわれがなに心なく自然に向かった時、そこでまず眼に映るものはそれぞれの“すがた・かたち”でしょう。その時のそれらはことごとく生きている。路傍の石ころひとつをとっても、軒の雨だれのひと滴をとっても、それらはみなそれぞれの表情でもってわれわれに生き生きと語りかけてくる。これに対し、もしわれわれの眼がそれらの“しかけ・しくみ”にしか届かないような時、それらのすべてはただ思惑の対象としての無生の物体となるだけではないでしょうか。生きているのは、したがって、“すがた・かたち”であって、しかけしくみではない。われわれはまさに、この“すがた・かたち”の中にのみ「いのち」というものを見出すのであります。死してなおひとの心に鮮やかにその“すがた・かたち”が残る時、その人間の「いのち」というものは、まだ亡びてはいない。「生」の本来の意味は、このようなものではないかと思われるのです。

 自然を見る人間の眼には二種のものが識別される。そのひとつは“すがた・かたち”を静観する眼であり、他のひとつ“しかけ・しくみ”を抽出する眼である。このいわば「左右」の眼の使い分けによって、ひとつのものが、一方では生に満ち溢れたものとなり、他方では生とは無縁のものとなる。われわれ人間には実にこのような二種の眼ーー言ってみれば”こころ”と”あたま”の眼ーーが、それぞれの形でだれにでも備わっているものですが、「生」の問題とは、こうして見れば、結局はおのれ自身の見方の問題に帰着するよりないことがうかがわれるのであります。「生命とリズム」17~18頁

三木はクラーゲスの哲学、ゲーテの形態論を援用し、次のような図式を提示する。

心臓 ー 心情 ー 宇宙生命との交流 ー こころ ー すがた・かたち 

脳  - 精神 - 自我の発生    ー あたま ー しかけ・しくみ

そして三木は言う。

「人間生命とは、人間のもつ“すがた・かたち”そのものである」と。

 以上で「生命」とは、生活の中にではなく、森羅万象の“すがた・かたち”の中に宿るものであることが解明された。したがって、ある人間の持つ“すがた・かたち”の強烈な印象がひとの心に深く刻み込まれた時、その人間の「生命」は生活を終えた死後もなお、脈々としてひとの心に波うち、消え去ることがない。そこでは”死んでもいのちがある”ことになる。

 ここからわれわれは「人間生命」と題するその意味が明らかになったのではないかと思う。それは人間の生活を支える原動力のようなものではなく、人間のもつ“すがた・かたち”そのものでなければならない、ということになった。 「生命とリズム」26頁

ゲーテはその形態学において人間独自の“すがた・かたち”を「原形」と呼んだ。

人間の原形とは「人間らしさ」のことだ。

「人間らしさ」があらわれた「すがた・かたち」を、三木は「おもかげ」という。

胎児の相貌に、三木は生命の記憶、宇宙のリズムを見出す。

胎児は子宮の中で、原初の細胞ができてから後の30数億年の過程を再現する。

母胎の内なる小宇宙において、生命進化の歴史の「おもかげ」が見られるというのだ。

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表紙。受胎32~38日頃の胎児の顔。

三木が胎児の写真(☝)を示して「上陸」の物語を語る、その語り口は詩情に満ちてスピリチュアルでとても感動的。

 さて、こうして見ますと、この受胎一ヵ月後の一週間に起こった劇的な変容の意味するものがにわかに明らかになってきたではありませんか・・・・・。

 それは脊椎動物古生代の昔、あのデボン紀の大海原から石炭紀の古代緑地に上陸を敢行し、やがて中生代の沃野を新生代に向けて延々と歩み続けていった・・・・・その大河のドラマの、いわば”夢の再現”にそれはほかならなかったのです。

 そこでは地球の印した「億」の足跡が、わずか数日の刻瞬に凝縮し、そこに展開された”上陸”の苦闘の歴史の”おもかげ”として走馬灯のごとくに過ぎ去ってゆく・・・・それは、いってみれば母胎の内なる「小宇宙」の出来事だったのです。  「内臓とこころ」182頁

何かの拍子にこのページを開いてしまい、またどういう因果かでここまでお読みくださった方がいらっしゃいましたら、是非「内臓とこころ」「生命とリズム」「胎児の世界」どれでもいいので読んでみてください。

最高ですよ~

以下は、ただのメモです。

・・・

「人間生命とは、人間のもつ“すがた・かたち”そのものである」そして、その“すがた・かたち”に「宇宙のリズムと生命のリズム」が宿ってゐる。

三木成夫の自然哲学は、ぼくにとって完全にダンスの話だった。

これはダンスの話だ。まったくもってダンスの話だよ。

ぼくはこういうダンスを見ると「いのち」を感じる。

身体がつくりだす「すがた・かたち」が「宇宙のリズム・生命のリズム」を体現してゐる。

一瞬の一瞬の形態の美しさはどういうことだろう。この調和。

ぼくにはすべての形態が小さな宇宙に見える。

リズムのうちに常に揺れ動きながら、すべての瞬間が統一的な秩序を有する、そのような宇宙。

人間身体の「すがた・かたち」がそのような宇宙をはっきりと顕現させてゐる。

・・・

三木によれば、クビはエラが退化してできたものとのこと。

詩人のイマジーネション。

  脊椎動物の歴史のなかでもっとも目ざましいものは、あの古生代の一億年をかけた上陸の物語であるが、その時からだに起こった革命のなかでいちばん眼に付くものは、ヒレが四肢に変わったこと、エラが退化してクビができたことであろう。人類がこぞって首を飾るのは、遠い海の故郷へのノスタルジアというものであろうか・・・・。 「内臓とこころ」31頁

クビはエラが退化したもの。そして、声の発生源であるノドもまたエラの筋肉から発生したもの。

(・・・)これでおわかりと思いますが、声の発生源である、のどぼとけの喉頭筋も、さらに、この声を言葉に直す、喉頭から口腔にかけての複雑きわまりない筋肉も、すべて鰓の筋肉の衣がえしたものであることが示されている。要するに”はらわたの筋肉”なのです。

 人間の言葉というのは、こうしてみますと、なんと、あの魚の鰓呼吸の筋肉で生み出されたものだ、ということがわかる。脊椎動物の五億年の歴史を遡る時、私どもは、否応なしにこの事実につき当たることになるわけですが、いずれにしても、人間の言葉が、どれほど”はらわた”に近縁なものであるかが、おわかりになったと思います。それは、露出した腸管の蠕動運動というより、もはや”響きと化した内臓表情”といったほうがいい。 「内臓とこころ」142頁

エラ呼吸から肺呼吸に変わった。その呼吸のリズムに「上陸」時の記憶が埋め込まれてゐるという。この記述、圧巻。

  ここで、われわれの呼吸のリズムの歴史を振り返ってみたいと思います。まず、古生代の昔に脊椎動物が上陸を始めます。かれらがどんなにして上陸したかは古生物学上の大問題ですが、これは一つのストーリーとして聞いて下さい。例えば波打際にいるとします。波がさし押し寄せ、ある時間波をかぶり、またさっと引いて行きます。つまりここでは海水と空気の状態がリズミカルに交代しますが、この時われわれは、波が引いた時息を吸い、波を被っている間は息をぶくぶくと吐く。呼吸のリズムと波の寄せては返すリズム、恐らくこれは脊椎動物の上陸時の出来事として何らかの関係があろうと思います。(略)このリズムは古今東西を問わず悠久に変らないと思う。このリズムと脊椎動物が獲得した空気呼吸のリズムとは何等かの関係があったと思うのです。

 さて、波のリズムは太陽系のリズムのひとつと考えられますが、この太陽系の無数のリズムの中で一番身近なものは日リズムで、われわれの休息と活動のリズムと一致します。これが月のリズムとなると女性の卵巣になります。この卵巣は二十八日おきに一つずつ卵を放出するのです。いったいこれはどのようなメカニズムで起こるのでしょうか。東京湾のゴカイが一定の月の満月の一定の時刻に一斉に海上に浮かび交尾するとか、また鮭が回遊してサンフランシスコ沖から間違わずに石狩川に帰って来るとか、動物は一般に時間、空間を確実にキャッチする能力を生まれながらに持っているようです。

 それを今日の生理学者は神経系の生理学、つまり刺激がやって来て、それを感覚器がとらえて脳に伝えるといった工合に解釈しようとしている。ところがイソギンチャクは実験室に持って来て海と隔ててもちゃんと潮の干満の情報を得ている。また、ジャワで採れた竹がワシントンに送られても、竹は四十四年周期で花が咲くらしいが、本国ジャワの竹が花を開いた時ワシントンの竹もチャンと花を開くという。これはどういう情報の伝達があるのか、やればやる程、不可思議という答が出て来る。結局、われわれのからだの細胞はひとつの「星」ではないか、という解釈になってしまうようです。

 太古の昔、海水からコアセルベートという一つのまとまりが出来た。これを再現して分析して見ると、地球を構成するすべての元素が含まれている。六価クロームから砒素にいたる猛毒のものが、少しずつだがすべて含まれている。それが細胞となる。したがってわれわれの細胞の一つ一つが、生きた衛星ではないか、ということになって来るのです。星であるから命令されなくてもちゃんと太陽系の運行のリズムを知っている。つまり卵巣から卵が飛び出すのは、まさに天体が分れて惑星をつくり、衛星をつくって行くのと本質的に同じことではないかというのです。 「生命とリズム」118~121頁