「インドのヒンドゥーとムスリム」中里成章 山川出版社 2008
「ムガル帝国時代のインド社会」小名康之 山川出版社 2008
世界史リブレットというシリーズから二冊。こんなふうに薄くて内容の濃い本はありがたい。こういう入門書をさらっと読んで、より専門的な書物に進んでいきたい。
中世インドについて勉強をはじめたばかりだけれど、何かを知るとよりわからなくなるという例のあれにさっそく逢着した感じだ。さっぱり分からないな。
ヒンドゥー教とイスラム教、言葉にすれば別の二つのものがあるようだけれど、インドのそれはゆっくり時間をかけてじっくり根付いていったもので、地域差があり階層差があり時代差があり、あまりに複雑でおおよそのイメージさへもつかめない。
弱ったなあ 笑
カタックについての記述はもちろんない。カタックについて日本語で書かれたものは本当にわづかばかりで、最大公約数的な概要しか知ることができない。
けれどそれがいいんだな。開拓してる感じが🐄
すごくいい。同じ著者の「世界の歴史〈14〉ムガル帝国から英領インドへ」が手元にある。楽しみだ。
ヒンドゥーとムスリムの対立が深刻化したのは19世紀の大英帝国支配時代に国民国家モデルが持ち込まれ、宗教とナショナリズムが結びついて以降であるということを繰り返し強調してゐる。ここ大事。
(・・・)まず、中世社会において二つの宗教が共生していた様相を説明し、つぎに、植民地支配のもとで〈近代的な〉価値観や制度がもたらされると、宗教を改革する運動が始まり、〈近代的な〉現象として宗教対立が徐々に深まり、やがてそれがナショナリズムと結びつくところまでを明らかにしたいと思う。自分が何者であるか、などという〈近代的な〉アイデンティティ探しとは無縁な世界で、一緒に暮らしてきた人びとが、〈近代〉の洗礼を受けて、対立しはじめるようになるまでの物語である。 9頁
21世紀、近代の生み出した領域国民国家というシステムの限界がいよいよ露わになってきた。人類は『自分が何者であるか、などという〈近代的な〉アイデンティティ探しとは無縁な世界で、一緒に暮らしてきた』世界に戻るべきなのかも知れない。
といって、戻ることはできないので、現在のテクノロジーと人権意識に基づく新しいシステムをつくっていく必要があるのだろう。
カタックは中世インドに生まれたインド・イスラーム混合の芸術様式だ。カタックのなかにはヒンドゥーとイスラームが調和をもって共生してゐる。それは芸術だから可能なことなのか・・・
このようにインドの外部からはいってきたムスリムの支配層は、ヒンドゥーの支配層とどのような関係に立ったのであろうか。最近の研究は、両者は、ムスリム社会とヒンドゥー社会を代表して対立・抗争するというよりも、「インドの支配層」としてただいに協調したり影響をおよぼしたりしていたと考えるのが妥当だとしている。そもそも、インドの中世で興亡を繰り返した王朝の支配層が、ヒンドゥー王朝とかイスラーム王朝とかいうような自己認識をもていたかどうか疑わしい。王朝を宗教によって二分し、両者が敵対し抗争していたかのようにみる視角は、〈近代〉になってイギリスが持ち込んだものにすぎない。中世インドの政治においては、そういう〈近代的な〉二分法とは異なるロジックが働いていたようである。 16-17頁
重要。
やっぱりぼくのうちには宗教、民族、言語などによって人間を分節化するような近代的枠組みが強く埋め込まれてゐるから、そのような目で見てしまう。中世インドについて学ぶことでそういう〈近代的な〉二分法を解除していきたい。そのときカタックはまた別の姿を見せてくれるはずだ。
(・・・)インドの中世社会においては、王権と寺院は相互依存的な関係にあった。そのため、戦場での勝利を確実なものにするためには、王権と密接に結びついた寺院を破壊する必要があったのである。ムスリムの支配者は「聖戦」とか「偶像破壊」とかいった宗教的な動機というよりはむしろ、現実的な政治的打算にもとづいてターゲットを選び、ヒンドゥー寺院の破壊を実行していたことになろう。
その一方で彼らは、大多数の寺院はそのまま残し、住民の信仰には干渉しない政策をとった。それどころか、ムスリムの支配者が寺院を庇護することさえふつうにおこなわれていた。少数派による支配を安定させるためには、住民の信仰を取り込んだほうが賢明だという現実的判断が働いたのである。 19-20頁
ヒンドゥー寺院の破壊というのはカタックと直接かかわるところ。このあたり、詳しく調べていかないとな。
「ムガル帝国時代のインド社会」
こちらは教科書的な記述が多く、物語的な面白さがないので、ちょっとしんどかったな。まあ仕方ない。
十六世紀後半、アクバル時代に一〇〇人以上のペルシア系画家を招聘し、宮殿のアトリエで絵を制作させた。
(・・・)
ムガル宮廷絵画は、ペルシア風の模写から発展し、独特のムガル様式を確立した。そこに描かれた人物は、ペルシア風の様式化した静的な人物の動きから脱し、動的で活力のある人物像となっている。 61-62頁
中世のカタックがどういうものであったか、映像技術が出てくる以前のものは究極的には想像するしかない。その有力な素材となるのが絵画だ。
参考文献に「インドの細密画を訪ねて〈上〉〈下〉」があげられてゐる。これは読むしかないっしょ。
アクバルは、一五七〇年代末から八〇年代にかけて、さまざまな宗教学者を集め、別宮ファテプル・スィークリーにイバーダット・ハーナと呼ばれる建物を建設させ宗教討論をさせた。そのときの論争には、イスラームの思想家だけでなく、カトリックの宣教師も加わり、ヒンドゥーやジャイナ教徒の学者も参加した。 70頁
イバーダット・ハーナはペルシア語で「信仰の家」という意味だそう。これはなんだろうか。めちゃんこ興味深いですね。これも調べてみたいなあ。