手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「白川静 漢字の世界観」松岡正剛

白川静 漢字の世界観松岡正剛 平凡社新書 2008

「興」という概念についての記述がとても刺激的だった。

「興」とは「失われた世界観にひそむなにがしかの部分の律動を、メタフォリカルに取り出し、記憶再生を試みる手法」をいう。ここで「失われた世界観」とは人々が神々の呪縛の中に生きてゐた時代の世界観である。

 古代の魂がおこした出来事にまつわる現象は、それが外面的なことであれ内面的なことであれ、そのまま直截に提示できたものであったはずでした。それが卜辞や金文に如実にあらわされていた世界観です。そこでは内容と表示がほぼ一緒のものでした。不即不離でした。

 やがて時代がくだり、絶対王や巫祝王が君臨する社会が解体していくと、様相が一変してきます。それが西周が終わって東周の春秋戦国時代がやってきたということであり、その次の秦の始皇帝による文字統一社会になったということなのですが、もはやかつての「内容と表示が一緒であるような歌謡や詞章の本来の意味」をそのまま復活することができなくなっていったのです。

 内容と表示は分離し、分断されていった。文字も変化し、しだいに呪能の力も失われていきました。けれども、一部にはそのような”記憶”を再生する方法も残響していたはずです。

 そこで新たな編集的な表現術としての「興」というような方法がとられ、その”記憶”が新たな表現方法とともによびさまされるようにもなったのです。そこには、かつての社会民俗の喚起もともなったのです。 147-148頁

人々が神々の呪縛の中に生きてゐた時代の言語は呪能を有する呪的言語である。この呪能は文字さへおぼつかなかった古代歌謡の時代に芽生えてゐたものだ。古代の魂が起した出来事にまつわる現象は「内容と表示が一緒であるような歌謡や詞章」として表現されてゐた。

時代の変化とともに、人々は神々の呪縛から解き放たれ、伝え方や想起の仕方が変ってきた。呪的な世界は遠のいてゆく。この失われつつある古代の記憶を再生する方法として「興」が生み出された。中国最古の詩集「詩経」にはその変遷が埋め込まれてゐる。

とすれば、もし「興」のなんたるかが分れば、詩経⇒興⇒呪的世界観といった具合に逆向きにたどり、遠い遠い、呪能に満ちてゐた世界にアクセスすることが出来るのではないか?

それをやったのが白川静という人。すごい人がゐるもんですね。ドキドキしてきます。

ところで、ぼくはカタックという伝統舞踊が好きで、面白がって勉強してゐる。で、カタックの起源の探求にこの方法を応用できないものかしら、なんてことを考える。

ぼくが知りたいのは、ムガル帝国時代のカタックはどんなものだったか、またそれ以前はどんなだったか、というようなこと。映像技術が登場する以前のものは究極的には分らないわけだけれど、いろいろ考えることは出来ると思うんだな。

例えば、ムガル時代にヒンドゥーイスラーム融合文化が生まれた。ムガル建築と細密画が有名だ。ウルドゥー語もそうだ。そして、カタックもそういうものなわけだが、建築や絵画のような物体ではないので、当時どういうものだったかは不明である。

しかしですね、建築や絵画や言語における「融合の仕方」に共通のものがあるとしたらどうだろうか。「融合の仕方」に一定の型があるとしたら、同じことがダンスにも生じたと推定することはできるのではないか、とか。もちろん、元の動きが分らない以上どうにもならないんだけれど。