本書の前書きは内田樹さんのブログに公開されてゐる。(こちら)
いま日韓関係は僕が知る限り過去最悪です。もっと関係が悪かった時代もあるいは過去のどこかの時点にはあったのかも知れませんけれど、僕の記憶する限りはいまが最悪です。どうして「こんなこと」になったのか。それについて僕自身は誰からも納得のゆく説明を聞いた覚えがありません。
メディアの報道を徴する限り、ことは韓国大法院の徴用工の補償請求への判決から始まったとされています。でも、もちろんこの判決が下るに至る日韓関係の長い前史があります。日本政府は1965年に問題の始点を区切って、「そこから」話を始めて、それ以前のことは「解決済み」として考慮に入れないという立場ですが、韓国の人たちはそれでは気持ちが片づかない。
法理上のつじつまが合うことと、感情的に気持ちが片づくということは次元の違う話です。次元の違う話をごっちゃにしたまま力押しで押しても問題は絡まるばかりです。
日韓の関係は昨日今日始まったものではありません。二千年にわたって深い関係を持ち続けた隣国同士です。だから、これは「問題」というよりは、ひとつの「答え」なんだと僕は思います。両国ともそれぞれの固有の筋を通しているうちに身動きできなくなったというのが「答え」です。ですから、僕としては、この「答え」をせめて「問題」のところにまで押し戻したいと思っています。
内田さんの呼びかけにこたえた以下の11人の論考を収める。
- 内田樹「二人の朴先生のこと」
- 平田オリザ「私が大学で教えている事柄の断片」
- 白井聡「歴史意識の衝突とその超克」
- 渡邊隆「韓国は信頼できる友好国となりえるか?」
- 中田考「隣国を見る視点」
- 小田嶋隆「炎上案件に手を出す者は、必ずや己の身を焦がすことになる」
- 鳩山友紀夫「東アジア共同体をめぐる、ひとつの提言」
- 山崎雅弘「韓国のことを知らない日本人とその理由」
- 松竹伸幸「植民地支配の違法性を考える」
- 伊地知紀子「卵はすでに温められている」
- 平川克美「見えない関係が見え始めたとき」
いづれも読みごたえがあり面白く読んだ。
個人的にはとくに白井聡さん、中田考さん、松竹伸幸さんの論考がよかった。三者の論考の概要を記す。(以下、敬称略)
よろしければ☟も。
白井聡「歴史意識の衝突とその超克」
白井によれば、現在の日本は「戦後の国体」の崩壊過程、その末期にある。「戦後の国体」とは、戦前の天皇制国家体制が敗戦を機にその頂点を米国に入れ替えることで生き延びてきたとするモデルである。その背景にあるのが、冷戦構造であり朝鮮戦争だ。
(・・・)すなわち、「鬼畜米英」を叫ばせていた戦前戦中の国家主義者たちが「親米保守派」として復権を許され権力中枢の地位を占める「戦後の国体」が、形をとり始めたのは逆コース政策においてであり、打ち固められたのは朝鮮戦争の勃発によってであった。 (74)
この文脈においてサンフランシスコ講和条約と日米安保条約が結ばれる。「親米保守」の自民党が戦後政治を担うようになる。
「戦後の国体」の基盤となるのが、米国に対する敗戦の事実を認めすぎるほど認めることの代償として、アジア諸国に対する敗戦の事実を全力で否認するという「歴史意識」だ。言い換えるならば対米従属&アジア蔑視である。この歴史意識は、戦後日本の経済発展がもたらした経済的優位性によって可能になったものだ。
冷戦が終わり、朝鮮戦争終結への動きが見え、日本の経済力が低下してゐるにもかかわらず、この「戦後の国体」を温存すべく醜態を晒してゐるのが安倍政権である。
国際情勢の変化と国力の増大によって韓国の「歴史意識」も変わりつつある。日韓基本条約が結ばれた1965年当時の韓国は軍事独裁の親米保守政権であり、ここでは韓国併合が違法か合法かという問題があいまいなまま決着された。
しかし、軍事独裁政権を打倒し、民主化から30年を経て、1965年の国交正常化とその結果そのものが不当なものだ、という歴史意識が強くなってきた。
そしてこのような歴史意識は、韓国の憲法、すなわち建国理念に流れ込んでいる。同憲法は建国以来9回の改正を経ているが、その前文で表明されている、大韓民国が1919年の3・1独立運動とそれを契機に発足した臨時政府をルーツとするという自らの歴史的位置づけは、一切変更されていない。言い換えれば、現在の大韓民国は、1910~45年の間に朝鮮半島を実行支配していた大日本帝国の後継者なのではなく、大日本帝国による支配を認めない独理運動と臨時政府の後継者であるとの自己認識を一貫して持っている。この歴史意識は、「韓国併合はその当時においては合法だった」とする日本側の歴史認識と正面から対立する。 81頁
耐用年数の切れた「戦後の国体」に基づく日本の歴史意識と、国力において日本を追い抜きつつある韓国の歴史意識とが、徴用工問題においてとくに象徴的に、衝突してゐるのである。
中田考「隣国を見る視点」
中田によれば、現在、領域国民国家システムの再定義、再編の過程にあり、またアメリカの国力の低下に伴う国際関係のパワーバランスの変化のなかで中華秩序が復興しつつある。このような条件のなかで朝鮮両国が中国の「新冊封体制」の下で統一国家として独立する。それにどう向き合うかが日韓問題の本質である。
(・・・)私たちは中華秩序の復興を念頭に日韓関係の未来を考えなければいけないと私は考えます。中華秩序の復興といっても、前近代の冊封体制をそのまま復興しようというわけではありません。私たちはノイラートの船の住人であり、中華文明と冊封体制の遺産で継ぎ接ぎしつつ制度疲労を起こした領域国民国家システムを新しい人類の共存のシステムに組み替えていくしかないのです。 125頁
私は日韓問題の未来は新しい中華秩序の構想の中で考えるべきだと思います。そしてそれには、民族を絶対化せず、さまざまなアイデンティティを有する集団が複雑に絡み合ってネットワークを作り重層的に繋がって共存してきた過去の多民族帝国の経験に学ぶことが重要だと思います。 128頁
多民族・多宗教が共存する新しい中華秩序を実現するためには、中国共産党も変わらなければならない。中国文明の政治思想の本流は、儒家の徳治の王道の理念を法家の法治による覇道の併用により補完し、さらに道家の無為自然の無政府主義によって奥行きを持たせたものである。
現在の中国共産党の支配は法家の法治主義による覇道であるが、これを徳治による王道に引き戻す戦略が必要である。
中田は結語として次のように述べる。
日本は今、東アジアの「自由民主主義」陣営の一員として、韓国、台湾、香港と連帯し、複合的なアイデンティティを持つ多様な集団の重層的なネットワークが緩やかに統合された新しい中華秩序の中の一つのハブとなるか、文明圏と帝国の再編の時代に取り残され、友邦もなく孤立しアメリカと中国の覇権争いの草刈り場になるかの選択を迫られており、日韓関係の再構築は日本の未来の試金石だと私は考えています。 132頁
松竹伸幸「植民地支配の違法性を考える」
2018年末に韓国大法院が下した徴用工判決の論理についての解説である。
この判決に対して、日本政府は「1965年の日韓請求権協定で解決済み」と主張した。これに対抗して出てきたのは「いいや、個人の請求権は消滅してゐない」という議論だった。
実に、2018年の徴用工判決は、ある意味、日本政府の主張を認めたものであり、すなわち日韓請求権協定にもとづく徴用工の請求権はすでに満たされてゐることを認めたものである。
では、いかなる論理で日本企業に対して慰謝料の支払いを求めたか。
それなのに、なぜ大法院は、なお個人の請求権は残っているとしたのでしょうか。その理由の中にこそ、現在に日韓関係の行き詰まりの原因もあるし、それを打開するカギもあります。
請求権協定で解決済みとされたけれど個人の請求権は残っているという論理は、大法院の判決が依拠するものではありません。そうではなくて、請求権協定が想定した個人の請求権はすでに満たされたけれど、請求権協定では想定されていない別の種類の個人の請求権が存在しているというものです。それが「違法な植民地支配」と結びついた請求権という新しい考え方です。 200頁
1965年に結ばれた請求権協定では日本の植民地支配が違法かどうかは決着することなくあいまいなまま残されてきた。したがって両国のあいだに合意が存在してゐない。
国家間の合意は存在しないが植民地支配が違法だったことは明白なのだから原告の請求権は残ってゐる、というのが2018年判決の論理だ。
これに対して日本政府が「請求権協定で解決済みだ」と言っても噛み合わないのは当然である。
では現在の国際社会は「植民地支配の違法性」をどのように扱ってゐるかというと、欧米諸国は植民地支配の謝罪も補償も考えてゐないのが現状である。
「植民地支配は違法というが、そもそもあなたがたには国際法という概念がなかったのであり、われわれが持ち込んだものだ。それをあとから裁くことは法の不遡及の原則に抵触する。したがって認められない」
というのが欧米諸国の論理である。そのなかで、韓国大法院が「植民地支配の違法性」を根拠に判決を下したからといって、日本がこれを認めることは容易ではない。
この論理をどう打ち破っていくのか。アフリカ諸国はダーバン会議でそこに臨みましたが、現在、後退することを余儀なくされています。韓国は大法院判決でそれに挑戦しようとしていますが、どうすればいいのか分かっていません。だから、韓国政府は判決を尊重するという以外、何の具体的な提起もできずにいますし、韓国国会議長がつくった法案なるものも、植民地支配の違法性には口をつぐんだままです。 212頁
では旧植民地諸国がかつての宗主国に植民地支配の違法性を認めさせることは不可能なのだろうか。松竹はその解答を持ってゐないと言う。しかし、明治に植民地化を免れ、逆に帝国主義に転じたという歴史をもつ日本は、あるいはそのカギとなるのではないか。
1965年の日韓交渉の際、日本側は、植民地支配の違法性をあいまいにした決着がやがて大きな問題を引き起こすであろうことを自覚してゐた。
当時の外相・椎名悦三郎は国会で「両国の利害が、今後条約発効後に衝突するというような場合には、十分にこれを解決する自信をもってをるわけであります」と述べてゐる。
もちろん、椎名氏は、日本側に有利に「解決する自信」を表明しているわけですが、少なくとも交渉しなければならないという自覚は持っていたのです。それならば、どのような解決になるかは別にして、条約の解釈(違法か合法化、無効か有効か)を一致させる交渉を行うことでは、日本と韓国は合意できるのではないでしょうか。まずそこで合意し、交渉の最中に日本企業の資産凍結をしないと韓国側が約束すれば、遠い道のりであっても両国が共に歩む道を見つけることができる可能性があります。 215頁
さて、少し感想をば。
中田の提唱する「中華秩序の復興」も、松竹の提唱する「日韓条約の再交渉」も、当今の世相では一笑に付されるに違いない。しかし何が起こるか分からない。日本人はしばしば豹変する。日本の国力がさらに低下し、韓国の国力がさらに増大し、その差が誰の目にも明らかとなったとき、「朝鮮蔑視とかダサイよね」みたいな空気になるかも知れない。
ただそうなるまでにはまだ時間が必要で、それまでのあいだ今以上のおぞましい風景を見ることになるかも知れない。不愉快であるが、いかんともしがたい。
アジア蔑視を克服できないならば、
「文明圏と帝国の再編の時代に取り残され、友邦もなく孤立しアメリカと中国の覇権争いの草刈り場」
となる未来は確定とぼくは思う。