手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋」斎藤環 與那覇潤

心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋斎藤環那覇潤 新潮選書 2020

豊かな対話。いまの日本社会について、そのなかで生きることについて、関係するあらゆる話題を縦横無尽に語ってゐる。誰が読んでも面白く、タメになる本だと思う。

ぼくがいちばん印象に残ったのは次の箇所。いわゆるひとつの「ほんとこれ!」というやつで、思わず声をあげそうになった。まったく愉快な内容ではないのだけれど。

那覇 実はデイケアでSST(引用者注:社会技能訓練)をやっていたときに、忘れられないエピソードがあるんです。患者さんが「働いているときに苦しかった状況」をロールプレイで再現するのですが、どう考えても「病気」なのは患者を追いつめた人の方でしょ、という話がいっぱい出て来る。パワハラ上司とか、モンスタークレイマーとかですね、彼らに攻撃されてうつになるのは「普通の人」であって、ほんとうに治療に必要なのは相手の側なわけです(苦笑)。

 これって変じゃないですかと尋ねたところ、臨床心理士の答えが振るっていて、「たしかに上司やクレーマーがクリニックに来たら、病気と診断される可能性が高い。ただ彼らはたまたま、いまのところ地位や立場に守られていて〈本人が困難を感じていない〉から、来院せず、病気だと言われていないだけですよ」と。つまり誰が心の病気と呼ばれるのかは、しばしば当人の気質や症状以上に、社会で置かれている環境で決まるわけですね。 240頁

「ほんとうに治療に必要なのは相手の側なわけです」ってまったくその通りだと思う。優しかったり真面目だったりする人がハラスメントを受けて、我慢して、それで心の病気になる。ひどい場合には自殺したりする。おかしいよ。

病気なのはハラスメントをしてしまう人の方だ。高圧的な態度で相手を威圧したり、弱いものに屈辱を与えたり、不機嫌になって支配したり、自分の過失を下位のものに押し付けて平気でゐるような、ハラスメント気質の人こそが病気であり、治療を受けるべきなんだ。ところがそういう人は、しばしば社会的地位が高かったり、経済的に優位に立ってゐたりすることから、病気だと呼ばれない。おかしいよ。

もう一つ強く印象に残ったのは、「歴史」はもう必要ない、というこちらも與那覇さんの言葉。

 (・・・)私も病気を経た結果、日本社会を貫く「通史」によって、なにか統一された針路を指し示すといった発想は、もうやめました。はっきり言えばわれわれの社会において、「歴史」はもう必要ない。むしろ生きていく個々のひとりひとりが、その人にとっての「古典」を持つことがはるかに大事だと、そういう風に考えています。 295頁

歴史学者がこういう認識にいたるのはたいへんなことだ。それは自分が躁鬱病にかかってはじめて考えるようになったことだという。対談の冒頭で次のように語ってゐる。

(・・・)素直に言って、ぼくはもう歴史感覚なんてなくてもいいと思っている。場合によっては積極的に歴史を「捨てて」いくのだって、あるべきひとつのオプションだと考えているんです。

(・・・)

 個人がうつ状態でなにに苦しむのかというと、やっぱり過去と比較しちゃうときなんです。「病気になる前はあれもこれもできたのに、いまはできない」と感じるから、もうこんな自分には価値がないと思いこんで、人によっては自殺まで行ってしまう。つまり、歴史(=過去から続く記憶)を生きていることが、その人を幸せにするのではなくかえって追い詰めてしまう体験を、ぼくは病気になって初めて知ったわけです。

 そうした目でいまの社会を見てみると、病気の前に斎藤さんと議論した「日本のヤンキー性」ーー歴史を忘れて「いま」しか考えない風潮にも、新しい見方ができるように思います。格差の拡大にせよ少子高齢化にせよ、すでに多くの日本人は、これから右肩下がりの時代が来ることを肌で感じている。そういう局面で「かつて高度成長の時代があって・・・・・」「バブル期には米国に勝って世界一になるとさえ・・・・・」のように過去を引きずっていたら、とても耐えられない。

 いまの時代に「歴史なんて関係ねぇ! 俺にとって価値があるのは「この瞬間」だけだぜ!」という姿勢で生きる人を、たんに反知性主義だとしてバカにしていればよいのか。もしかしたらそれは、なんとかうつ状態に陥らずに社会全体のディプレッションを生き延びるための予防的な対応なのかもしれないと、ふと感じるようになったのです。 22-24頁

これは当っていると思う。「歴史を忘れて「いま」しか考えない風潮」は、「なんとかうつ状態に陥らずに社会全体のディプレッションを生き延びるため予防的な対応」なのだと思う。

ぼくはその風潮に微力ながらも抵抗したくて政治年表をつくってきたのだけど、先日それをやめることにした。一つには、世の中の人がどうやら忘れたくてしかたないらしいことがようやく分かったからであり、いま一つには、それが分かってなお続けることは単に苦痛であり、自分の生のバランスを崩してしまうからである。無意味な闘いをしても消耗するだけだ。

では、これからぼくが歴史を忘れて「いま」しか考えずに生きていくかというとそうではない。世の中がどうであろうと、ぼく個人としては歴史感覚をもち、歴史(=過去から続く記憶)を生きていきたいと思う。

なぜなら「この瞬間」だけだぜ! という生き方は「なんとかうつ状態に陥らずに社会全体のディプレッションを生き延びるための予防的な対応」としては有効かもしれないけれど、そこには生きる意味や生の充実を見いだせないからだ。

人間の生にはどうしても自己を超える時間につながってゐることが必要だ。そう考えるからぼくは伝統舞踊をやってゐるのだし、こんな仮名遣いで書いてゐる。

だから與那覇さんの「むしろ生きていく個々のひとりひとりが、その人にとっての「古典」を持つことがはるかに大事だ」という言葉には深く共感したのだった。