手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「愛するということ」エーリッヒ・フロム

愛するということ」エーリッヒ・フロム 鈴木晶=訳 紀伊國屋書店 2020

原著は1956年刊行の「The Art of Loving(愛の技術)」。

素晴らしい本だった。人間にとっていちばん大切なことが書かれてある。ときどき読み返して反芻する必要があるから、たくさんノートにとっておこう。

翻訳の見事さにも驚愕した。こんな綺麗な文章ってなかなかない、達意の名文で最高の翻訳だと思う。感激しました。

まづ、論理的で気持ちがいい。それはきっと文章の構造と長さ、接続詞の選択が適切であることからくる。それから音と視覚、両面におけるリズムの闊達さ。これは読点の間隔と位置、漢字と仮名文字のバランスが完璧であることによると思う。もちろん、論理性とリズムが生きてくる前提として、語彙の選択がいちいち適切であり、冗長に堕さない緊張度を有することがある。

さて、フロムによれば、愛は「自然に生まれてくるものであり、自分の意志ではどうにもならないもの」ではない。愛は技術であり、習練によって身につけることができるのである。

 人を愛そうとしても、自分の人格全体を発達させ、それが生産的な方向に向かうように全力で努力しないかぎり、けっしてうまくいかない。特定の個人への愛から満足を得るためには、隣人を愛せなくてはならないし、真の謙虚さ、勇気、信念、規律がなくてはならない。これらの特質がほとんど見られない社会では、愛する能力を身につけることは容易ではない。実際、真に人を愛せる人を、あなたは何人知っていますか?

 しかし、その仕事が困難だからといって、それを口実に、その仕事の困難さや、その仕事を達成するのに何が必要かを知ろうとする努力を放棄してはいけない。 3頁

真の謙虚さ、勇気、信念、規律といった特質をかえりみない社会において、愛する能力を身につけることはむづかしい。しかし、諦めてしまってよいのか? この世に愛する技術より大切なものはないはずで、誰もが本心ではそれを欲してゐるのに。

(・・・)現代人は心の奥底から愛を求めているくせに、愛より重要なことは他にたくさんあると考えているのだ。成功、名誉、富、権力、これらの目標を達成する術を学ぶためにほとんどすべてのエネルギが費やされてしまうために、愛の技術を学ぶエネルギーが残っていないのだ。 17頁

なぜ愛を求めるのか。それは人間のもっとも強い欲求が、孤独から解放されることだからだ。

 このように、人間のもっとも強い欲求は、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。この目的の達成に全面的に失敗したら、精神に異常をきたすにちがいない。なぜなら、完全な孤立という恐怖心を克服するには、孤立感が消えてしまうくらい徹底的に外界から引きこもるしかない。そうすれば、外界も消えてしまうからだ。

 どの時代のどんな社会においても、人間はひとつの問題の解決に迫られてきた。いかに孤立を克服するか、いかに合一を達成するか、いかに個人の生活を超越して他者と一体化するか、という問題である。 23頁

「個人の生活を超越して他者と一体化する」ために人間は祝祭的な融合(祭り、儀式、セックス)、集団への同調(国家、宗教、型にはまった仕事・娯楽)、生産的活動(芸術や工芸などの創造)、などをおこなうが、いづれも部分的回答にしかならない。

 生産的活動で得られる一体感は、人間どうしの一体感ではない。祝祭的な融合から得られる一体感は一時的である。集団への同調によって得られる一体感は偽りの一体感にすぎない。だから、いずれも、実存の問題に対する部分的な回答でしかない。完全な答えは、人間どうしの一体化、他者との融合、すなわち愛にある。

 自分以外の人間と融合したいというこの欲望こそが、人間のもっとも強い欲望である。それはもっとも根源的な熱情であり、人類を、部族を、家族を、社会を結束させる力である。融合を達成できないと、正気を失うか、破滅する。自分が破滅する場合もあれば、他の人びとを破滅させる場合もある。この世に愛がなければ、人類は一日たりとも生き延びることはできない。 35頁

スピノザは感情を「能動的な感情=行動」と「受動的な感情=情熱」とに分ける。能動的な感情を行使するとき、人は自由であり、自分の感情の主人である。受動的な感情を行使するとき、人は駆り立てられ、自分では気づいてゐない動機のしもべである。

この分類にしたがえば、羨望、嫉妬、野心、貪欲などは「受動的な感情=情熱」であり、愛は「能動的な感情=行動」である。

 愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう。 41頁

与えるとはどういうことだろう。商人的発想の人は見返りがある場合にのみ与える。それは場合によっては貧しくなることであり、犠牲を甘んじて受け入れる、そのような美徳である。しかし生産的な性格の人にとって、与えることは自分の生命力の表現である。

 生産的な性格の人にとっては、与えることはまったくちがった意味をもつ。彼らにって、与えることは、自分のもてる力のもっとも高度な表現である。与えるというまさにその行為を通じて、私は自分のもてる力と豊かさを実感する。この生命力と能力の高まりに、私は喜びをおぼえる。私は自分が生命力にあふれ、惜しみなく消費し、いきいきとしているのを実感し、それゆえに喜びをおぼえる。与えることはもらうことよりも喜ばしい。それは剥ぎとられるからではなく、与えるという行為が自分の生命力の表現だからである。 42頁

  しかし、与えるという行為のもっとも重要な部分は、物質の世界にではなく、ひときわ人間的な領域にある。では、ここでは人は他人に、物質ではなく何を与えるのか。それは自分自身、自分のいちばん大切なもの、自分の生命だ。これは別に、他人のために自分の生命を犠牲にするという意味ではない。そうではなく、自分のなかに息づいているものを与えるということである。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているものすべてを与えるのだ。

 このように人は自分の生命を与えることで他人を豊かにし、自身を活気づけることで他人を活気づける。もらうために与えるのではない。与えること自体がこのうえない喜びなのだ。だが、与えることによって、かならず他人のなかに何かが生まれ、その生まれたものは自分に跳ね返ってくる。ほんとうの意味で与えれば、かならず何かを受けとることになる。与えることは、他人をも与える者にする。たがいに相手のなかに芽生えさせたものから得る喜びを分かちあうのだ。与える行為のなかで何かが生まれ、与えた者も与えられた者も、たがいのために生れた生命に感謝する。とくに愛に限っていえば、こういうことになる。ーーー愛とは愛を生む力であり、愛せなければ愛を生むことはできない。 43-45頁

与えることのほかに、愛の能動的な性質を示す要素として、配慮、責任、尊重、知がある。これらはたがいに依存しあい、成熟した人間にのみ見られるものだ。

配慮とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。

責任とは、他の人間が、口に出すにせよ暗黙のうちであれ、何かを求めてきたときに、応答することである。

尊重とは、他人がその人らしく成長発展していくように気づかうことである。

知とは、自分自身にたいする関心を超越して、相手の立場にたってその人を見、その人を知ることである。

 幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則にしたがう。成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。未成熟な愛は「あなたが必要だから、あなたを愛する」と言い、成熟した愛は「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」と言う。 67頁 

ひとりの他人を愛することは、自分自身を愛することである。またそれを通して人類全体、さらにはこの世に生きている者すべてを愛することである。

 恋愛には、もしそれが愛と呼べるものなら、前提がひとつある。すなわち、自分という存在の本質から愛し、相手の本質とかかわりあうということである。本質においては、すべての人間は同一である。私たちは絶対者という「一者」の一部であり、「一者」そのものである。だとしたら、誰を愛するかなどは問題ではないはずだ。 90頁 

(・・・)しばしば、人間そのものを愛することは、特定の個人を愛することの後からくる抽象的なものだと考えられているが、そうではない。たしかに現実には特定の個人を愛するときにはじめて人間そのものを愛することになるが、人間そのものを愛することは、特定の人間を愛することの前提なのである。

 以上のことからわかるように、私自身もまた他人と同じく私の愛の対象になりうる。自分の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち配慮・尊重・責任・知に根ざしている。もしある人が生産的に愛せるなら、その人は自分のことも愛している。他人しか愛せない人は、愛することがまったくできないのである。 95-96頁

では愛する技術をいかに習得するか。そのためには生活のあらゆる場面において、規律、集中、忍耐の修練を積まなければならない。

現代において身につけることがむづかしいのは「集中」である。集中できるとは、ひとりきりでゐられるということであり、これは人を愛せるようになるための必須条件のひとつである。

(・・・)何をするときにも精神を集中させるよう心がけなければいけない。音楽を聴くときも、本を読むときも、人とおしゃべりするときも、景色をながめるときも。そのとき自分がやっていることだけが重要なのであり、それに全身で没頭しなければいけない。精神を集中してさえいれば、何をしているかは重要ではない。大事なことも、大事でないことも、あなたの関心を一手に引き受けるため、これまでとまったくちがって見えてくるはずだ。 168-169頁

集中力を身につけるためには、自分にたいして、また他人にたいして敏感にならなければならない。

 以上の例に共通して重要なのは、変化に気づくことと、手近にある、ありとあらゆる理屈を持ち出してその変化を安易に合理化しないことである。それに加えて、内なる声に耳を傾けることだ。なぜ私たちは不安なのか、憂鬱なのか、いらいらするのか、内なる声はその理由を、たいていすぐに教えてくれる。 173頁

愛を達成するためにはナルシシズムを克服しなければならない。そのためには、客観力、すなわち、人間や事物をありのままに見て、その客観的なイメージを、自分の欲望と恐怖によってつくりあげたイメージと区別する能力が必要である。

 客観的に考える能力、それが理性である、理性の基盤となる感情面の姿勢が謙虚さである。子どものときに抱いていた全知全能の夢から覚め、謙虚さを身につけたときにはじめて、自分の理性を働かせることができ、客観的にものを見ることができるようになる。

(・・・)

愛する技術を身につけたければ、あらゆる場面で客観的であるよう心がけなければならない。また、そういうときに自分が客観的でないかについて敏感でなければならない。他人とその行動について自分が抱いているイメージ、すなわちナルシシズムによって歪められたイメージと、こちらの関心や要求や恐怖にかかわりなく存在している、その他人のありのままの姿とを、区別できなければならない。 179-180頁

愛の技術を習得するために、客観性と理性と、もう一つ重要な資質がある。それは「信じる」ことである。

 理にかなった信念があらわれる経験領域は、思考と判断だけではない。人間関係においても、信念は、どんな友情や愛にも欠かせない特質である。他人を「信じる」ことは、その人の基本的な態度や人格の核心部分や愛が、信頼に値し、変化しないものだと確信することである。これは、人は意見を変えてはならないという意味ではない。ただ、根本的な信念は変わらないのだ。たとえば、生命や人間の尊厳に対する畏敬の念はその人の一部分であって、変わることはない。

 同じ意味で、私たちは自分を「信じる」。私たちは自分のなかに、ひとつの自己、いわば芯のようなものがあることを確信する、どんなに境遇が変わろうとも、また意見や感情が多少変わろうとも、その心は生涯を通じて消えることなく、変わることもない。この芯こそが「私」という言葉の背後にある現実であり、「私は私だ」という確信を支えているのはこの芯である。自分のなかに自己がしっかりあるという確信を失うと、「私は私だ」という確信が揺らいでしまい、他人に頼ることになる。そうなると、「私は私だ」という確信が得られるかどうかは、その他人にほめられるかどうかに左右されることになってしまう。183-184頁

信じるとは可能性を信じることである。まだ実現されていない、自分/他人、人類の可能性の将来を信じることである。だから信念をもつには勇気がいる。あえて危険をおかす能力、苦痛や失望をも受け入れる覚悟が必要となる。

 安全と安定こそが人生の第一条件だという人は、信念をもてない。防御システムをつくりあげ、そのなかに閉じこもり、他人と距離をおき、自分の所有物にしがみつくことで安全をはかろうとする人は、自分で自分を囚人にしてしまうようなものだ。愛されるには、愛するには、勇気が必要だ。ある価値を、これがいちばん大事なものだと判断し、思い切ってジャンプし、その価値にすべてを賭ける勇気である。 188頁 

 ある他人に対してある評価をくだし、たとえそれがみんなの意見とちがっていても、また、何か不意の出来事によってその評価が否定されそうになっても、その評価を守り通すには、やはり信念と勇気がいる。困難に直面したり、壁にぶちあたったり、悲しい目にあったりしても、それを、自分には起こるはずのない不公平な罰だとみなしたりせず、自分に課せられた試練として受け止め、これを克服すればもっと強くなれるはずだというふうに考えるには、やはり信念と勇気が必要だ。

 信念と勇気の修練は、日常生活のごく些細なことからはじまる。第一歩は、自分がいつどんなところで信念を失うか、どんなときにずるく立ち回るか、それをどんな口実で正当化しているかを詳しく調べることだ。そうすれば、信念にそむくごとに自分が弱くなっていき、弱くなったためにまた信念にそむく、といった悪循環に気づくだろう。また、それによって次のようなことがわかるはずだ。つまり、人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは無意識のなかで、愛することを恐れているのだ。

 人を愛するということは、なんの保障もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全身を委ねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛せない。 189-190頁

愛こそが、いかに生きるべきかという問いにたいする唯一の健全で満足のいく答えである。もし社会が愛の発達を阻害するものであるとすれば、これを変えなくてはならない。

1956年のフロムの観察によれば、現代社会において、すべての活動は経済上の目標に奉仕し、手段が目的と化してゐる。人が愛せるようになるためには、これを逆転させ、人間が経済という機構に奉仕するのではなく、経済機構が人間に奉仕するようにならなければならない。

近年のマルクス資本論」ブームを見ても、フロムの問題意識がまったく現代的なものであることは明かだ。愛の実現にはひとりの人間の成熟が必須であると同時に、社会的な諸条件を批判することもまた必要なのである。