手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「論語物語」下村湖人

論語物語下村湖人 興陽館 2021(初刊は1938年)

簿記2級の受験をひかえて勉強ばかりしてゐる。連結会計では非支配株主持分に注意が必要で、子会社の利益に変化がある取引、すなわちアップストリーム取引においては非支配株主持分の変化を反映させる仕訳が必要となる、とか、直接原価計算では製造固定費は製造原価ではなく費用として処理するので、仕掛品には入れないんだ、とか、そんなアレコレで頭がパンパンだ。

学校のほうはワード・エクセル・パワーポイントの授業が始まり、便利なショートカットキーをたくさん覚えてゐるところだ。資格やスキルアップのための努力は多くの場合報われるし、結果が出ると自分がレベルアップした気分になる。きっと就職にも役立つから経済状況の改善につながるはずだ。だからけっこう楽しく奮闘してゐる。

けれども、必ず正解があってやったことがすぐに結果に結びつくような、実際的で即物的なことばかりに時間と労力をつかってゐると、どうにも自分のなかの反社会的な部分が謀叛を起して、いやそういうすぐに役に立つことよりも、やっぱり「道」とか「天」とかのほうが大事なのではないか、という気持が出て来てしまう。つまり、パンケーキを食べるなら、やはりコーヒーがないといけない(違う)。

そういうわけで、我ながら可笑しいのだが、無性に「論語」が読みたくなってしまった。でも白文と書き下し文のものを読むほどの気力がないので、下村湖人の「論語物語」を手に取った。学生の頃に講談社学術文庫で読んだことがあるから、15年ぶりくらいの再読だ。

15年前も同じように、周りの学生が就職活動に励むなかで、やっぱり「道」とか・・・などと考えて論語を読んでゐたように思う。けれど歳月は人を成長させるらしく、当時とちがい、いまは資格やスキルアップのための努力も楽しくできる。長い時間をあけて同じ本を読むことで、過去の自分と出会えた気がした。

学びて時に之を習う、亦説ばしからずや。

だな。偉いなあ、孔子先生は。

以下、ノートをば。

子曰、 貧而無怨難、 富而無驕易。

子曰わく、貧にして怨むこと無きは難く。富みて驕ること無きは易しと。

(・・・)そこで貧富を超越するということじゃが、それは結局、貧富を天に任せて、ただ一途に道を楽しみ礼を好む、ということなのじゃ。元来、道は功利的、消極的なものではない。したがって、貧富その他の境遇によって、これをニ、三すべきものではない。 26頁

子曰、老者安之、朋友信之、少者懐之。

子曰わく、老者はこれを安んじ、朋友はこれを信じ、少者はこれを懐けんと。

 先生は、ただ老者と、朋友と、年少者とのことだけを考えていられる。それらを基準にして、自分を規制していこうとされるのが先生の道だ。自分の善を誇らないとか、自分の労を衒わないとかいうことは、要するに自分を中心にした考え方だ。しかもそれは頭でひねりまわした理屈ではないか。自分たちの周囲には、いつも老者と、朋友と、年少者とがいる。人間は、この現実に対して、ただなすべきことをなしていけばいいのだ。自分にとらわれないところに、誇るも衒うもない。 55-56頁

子曰、唯女子与小人、為難養也。近之、則不孫、遠之、則怨。

子曰わく、唯女子と小人とは養い難しと為す。これを近づくればすなわち不遜なり。これを遠ざくればすなわち怨むと。

(小人がつけ上がるのも、怨むのも、また嫉妬心を起こすのも、結局は自分だけがよく思われ、自分だけが愛されたいからだ。悪の根源はなんといっても自分を愛しすぎることにある。この根本悪に目を覚まさせない限り、彼らはどうにもなるものではない) 141頁

子曰、君子周而不比、小人比而不周。

子曰わく、君子は周して比せず。小人は比して周せずと。

「(・・・)君子は公平無私で、広く天下を友とするものじゃ。小人はこれに反して、好悪や打算が交る。だからどうしても片よる。片よるだけならいいが、それでは真の交わりはできない。真の交わりは道をもって貫くべきものじゃ」 155頁

鳥獣不可与同群。 吾非斯人之徒与、而誰与。 天下有道、丘不与易也。

鳥獣とは与に群を同じくすべからず。 吾この人の徒と与にするにあらずして、誰と与にかせん。 天下道有らば、丘与り易へざるなり。

「山野に放吟し、鳥獣を友とするのも、なるほど一つの生き方であるかもしれない。しかし、わしにはまねのできないことじゃ。わしには、それが卑怯者か、徹底した利己主義者の進む道のように思えてならないのじゃ。わしはただ、あたりまえの人間の道を、あたりまえに歩いてみたい。つまり、人間同士で苦しむだけ苦しんでみたい、というのがわしの心からの願いじゃ。そこにわしの喜びもあれば、安心もある。子路によれば、隠士たちは、こう濁った世の中には未練がない、といっているそうじゃが、わしにいわせると、濁った世の中であればこそ、その中で苦しんでみたいのじゃ。正しい道が行われている世の中なら、今ごろわしも、こうあくせくと旅をつづけていはしまい」 243-244頁

子曰、苗而不秀者有矣夫、秀而不實者有矣夫。

子曰く、苗にして秀でざる者あるかな。秀でて実らざる者あるかな。

子曰、愛之能勿労乎。忠焉能勿誨乎。

子曰く、これを愛して能く労することなからんや。これに忠にして能く誨うることなからんや。

子曰、譬如為山。 未成一簣、止吾止也。 譬如平地。 雖覆一簣、進吾往也。

子曰く、たとえば山を為るが如し。 未だ一簣を成さずして止むは吾が止むなり。たとえば地を平らかにするが如し。 一簣を覆すといえども、進むは吾が往くなりと。

(自分は倦んではならない。一時の感傷にひたって、門人たちを甘やかしてはならない。彼らの中には苗のままで花をつけないものもあろう。また、花をつけても実を結ばない者もあろう。だが自分は退いてはならない。なぜなら、自分は彼らを愛しているからだ。彼らの忠実な友でありたいからだ。愛する以上は彼らに苦労をさせなくてはならない。忠実な友であるためには、倦まずたゆまず彼らに誨えてやらなければならない。それが天の道を地に誠にするゆえんだ。自分がここで一歩退いたら、天の道が一歩退くことなる。

 道の実現は、たとえば山を築くようなもので、あと一簣というところで挫折しても、それは全部の挫折だ。また、でこぼこの地をならすようなもので、たとえ一簣の土でもそこにあけたら、それだけ仕事がはかどったことになる。道は永遠だ。一歩でも進むにこしたことはない、そして進も退くもすべては苦難と妥協しないこの心一つだ) 253-254頁