手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「文化大革命と現代中国」安藤正士、太田勝洪、辻康吾

文化大革命と現代中国」安藤正士、太田勝洪、辻康吾 岩波新書 1986

文化大革命とはなんだったのだろう。本を読むとなるほどこういう経緯からこういうことが起ったのかと順序や出来事は理解できるが、内在的な感覚、体感としてはもうまったく理解できない。だからやっぱり分からない。

新しい秩序を作ることとそれを維持することはまったく異なる二つの営みなのだという感じを強くもった。清朝末期から西洋と日本の帝国主義に蹂躙されてきた中国に新しい秩序を建設したのが毛沢東だ。

中国は人類史において、常にではないかも知れないが、かなり長いあいだ最も進んでゐる国であったし、最も豊かな国だった。異民族から侵略されることがあっても文化的には逆に呑み込んできた。だから中華文明は途絶えることがなく、元はモンゴル人の、清は満州人の王朝だが「正史」に入ってゐる。

その中国が近代に入って初めて文明レベルで敗北を味わった(この屈辱感はまだ消えてゐないようだ)。アヘン戦争から100年後にようやくこれを撥ね返したのが毛沢東である。彼は自立のためにマルクス・レーニン主義に基づく階級闘争の理論を採用し、1949年に中華人民共和国を成立させた。

毛沢東の成し遂げたことは偉業に違いないが、階級闘争の理論は革命のための理論であり、これによって秩序を維持安定させることはできなかった。彼は「継続革命」と言った。革命を継続するとはどういうことか。やはり無理がある。大躍進政策文化大革命の失敗はそのことを示してゐる。

インド思想では三位一体ということをいう。ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァは究極的な存在が別のかたちで顕現したもので、それぞれ創造、維持、破壊を担う。一神教的なものと多神教的なものがこの理論では共存することができる。

人間は神ではないから、ひとりの人間が創造、維持、破壊を担うことはむづかしいようだ。おそらく毛沢東には創造する力はあっても維持する力はなかった。しかし創造があまりに偉大な事業であったために個人崇拝が強くなり、維持する力をもった人間に権力をゆづることが出来ず、破壊に直結してしまった。

そういうことなんぢゃないだろうか。不適切な表現だが、文化大革命は「面白い」。

 個人崇拝に対する毛沢東の真意がいかなるものであったかは、もはや知ることのできない謎である。だが林彪が「毛主席の指示は分かったところを実行しなければならないし、たとえ分からないところがあっても実行しなければならない」と発言するに至ったとき、毛沢東崇拝は衆愚政治の極致に至ったといえよう。 22頁

 「継続革命理論」は、新たな階級闘争をよびかけながらも、本来生産関係から客観的に決定されるべき階級関係を、きわめて主観的、恣意的に思想、文化、社会関係の範囲にまで拡大し、正体不明の「新しいブルジョアジー」に闘争を挑んだところにその重大な欠陥があったと言えよう。 189頁

 祖国の滅亡、民族の危機こそが毛沢東のみならず、その時代の心ある若者たちを変革と革命へと駆り立てた原点であった。彼らの夢見たのは富強の中国であり、彼らの多くは外国にその教えを求めた。だが毛沢東の言う通り日本をはじめ列強は中国を侵略し、その圧力の下で社会主義を選んだ中国共産党が最後の勝利者となったと言えよう。

 新国家が樹立され、社会主義は富強の中国の即時実現を約束するかに見えた。しかし近代化の道は革命と同様、あるいはそれ以上に困難なものであった。社会主義、とりわけ毛沢東指導下の中国社会主義は一見、西欧や日本をモデルとする物的近代化の道を拒否し、より高次な理想社会を追求しているかのように見えた。

 だがその背後には常にかつて生徒を裏切った先生、資本主義を見返すべき高速度の近代化、富強化への強い願望と焦燥が働いていた。五八年の大躍進政策は生産の飛躍的増大を目指し、五年で英国を、十年から十五年でアメリカを追い抜くことが目標とされた。大躍進は失敗に終わり、さらに熱狂的な革命主義に溢れた文革が始まった。

(・・・)

 そして文革が革命のなかで終結した時、人々は文革の継承をとなえた華国鋒ではなく、経済の現代化をよびかけた鄧小平を支持した。今日の物的近代化をめざす中国の現代化政策はなお多くの困難と曲折に満ちている。しかし中国革命の原点を振り返るとき、富強の中国の実現こそ中国革命の歴史的原点であったことが思い出される。

 たしかに今日の現代化路線は文革からの百八十度の転換であった。しかし大躍進であれ文革であれ、そして今日の現代化路線であれ、結局は富強の中国の夢という同じ歴史の記憶のなかから生まれてきたものではなかったろうか。 206-207頁 改行を追加した