手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「対談 中国を考える」司馬遼太郎 陳舜臣

対談 中国を考える司馬遼太郎 陳舜臣 文春文庫 1983年

1974年から77年にかけての対談。司馬遼太郎が繰り返し(あるいは、執拗に、と言ったほうがよいか)日本人には普遍がわからない、普遍を中国に学ばないと日本は滅びるという意味のことを語ってゐる。

その予言は的中した、あるいはそうなりつつあるかもしれない。同時に、普遍に背を向けて心地よい特殊性のなかに閉ぢこもろうとしてゐるのは、中国も、いやどこの国も同じではないかという気もする。

もちろん、だから開き直ってよいというのではなく、なお中国に学ぶべきとぼくは考えるんだけどもね、どうですかね。

司馬 こういうことを考えると、日本はやっぱり元禄時代に開国すればよかったと思う。元禄時代に黒船が来てたら開国しましたよ。徳川幕府は倒れます。簡単です。さらに歴史にもしがいえるとしたら、戦国のころに入ったキリシタンをそのまま大事にしていれば、世界性が身についたかもしれません。

(・・・)つまり、天文・天正カトリックをなぜ日本は無にしたかということはくりかえし残念ですね。そのままでいていまも三割くらいがカトリックでおるとしたら、太平洋戦争を起こさなかったかもしれんな。情報がオープンに入ってくる。それから世界人みたいな意識がある。 84-85頁

司馬 社会主義というと、すぐアレルギーを起こす人が世界的にいるけれど、中国はイデオロギーでやっているんじゃなく、中国民族はどうしたら生きられるかと問題を根源的に戻してやっている。これを少し見習って、かりに自民党社会主義をやったっていい、共産主義はなにも代々木の専売特許じゃないんだから、誰がやったっていい、またそんな”主義”をつけんでもいいわけだ。つまりそうしてやっていかないとわれわれは滅びるんじゃないかという気がする。 126-127頁

司馬 (・・・)僕は何も中国贔屓とか、そんなんで言ってるんじゃない。日本人を救う方法として言ってるわけでね。日本人を救う方法は普遍性を知ることであって、普遍性を知る手近な方法は中国を知ることかもしれない。アメリカやフランスも普遍性は多分にあるわけですね。ところが、アメリカ、フランスという文化で眩惑されてしまって、普遍性がよくわからなくなる。それよりも中国の庶民を見てたら、それでいい。インテリを見ずにね。それが日本人には永久にわからないかもしれないけど、これがわからなかったら、日本は自滅するな。 129頁