手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「人新世の「資本論」」斎藤幸平

人新世の「資本論」」斎藤幸平 集英社新書 2020

収奪

資本主義は人間から収奪する。また環境から収奪する。それは際限のない運動だ。

資本主義とは、価値増殖と資本蓄積のために、さらなる市場を絶えず開拓していくシステムである。そして、その過程では、環境への負荷を外部へ転化しながら、自然と人間からの収奪を行ってきた。この過程は、マルクスが言うように、「際限のない」運動である。利潤を増やすための経済成長をけっして止めることがないのが、資本主義の本質なのだ。 117頁

いま、人間からの収奪は人類史上かつてなかったような非人道的なまでの格差社会を生み、環境からの収奪は自然災害の頻発というかたちで人類の存続を脅かしつつある。成長を諦め、資本主義とは別のシステムへの移行を目指すほかない。

成長をやめよう、資本主義は限界だ、という意見に対して、いや豊かさを諦めるのは無理だという反論がでてくる。なるほど、では豊かさとはなにか。資本主義は、成長は、ぼくたちを豊かにしてくれただろうか。どんどん貧しくなってゐるのではないか。自然とのつながり、人間関係、労働の喜び、そういうものがどんどん失われてゐるではないか。

 新たな潤沢さを求めて、現実に目を向けてみよう。すると気がつくはずだ。世の中は、経済成長のための「構造改革」が繰り返されることによって、むしろ、ますます経済格差、貧困や緊縮が溢れるようになっている、と。実際、世界で最も裕福な資本家二六人は、貧困層三八億人(世界人口の約半分)の総資産と同額の富を独占している。

 これは偶然だろうか。いや、こう考えるべきではないか。資本主義こそが希少性を生み出すシステムだという風に。私たちは、普通、資本主義が豊かさや潤沢さをもたらしてくれると考えているが、本当は、逆なのではないか。 231頁

本源的蓄積

「希少性」とは「満たされない」という欠乏の感覚である。これが資本主義の原動力だ。マルクスはこれを「本源的蓄積」という概念を用いて分析する。

「本源的蓄積」とは馴染みのあることばに言い換えれば「囲い込み」のことである。共同管理されてゐた根源的な生産手段である土地を「囲い込み」、より利潤率の高い農業経営に切り替える。行き場を失った農民は仕事を求めて都市に流れ込み、賃労働者となった。

ここに資本主義が離陸した。「本源的蓄積」とは、資本が〈コモンズ〉の潤沢さを解体し、人工的希少性を増大させていく過程のことを指す。潤沢さから欠乏へ。

 ここで重要なポイントは、本源的蓄積が始まる前には、土地や水といったコモンズは潤沢であったという点である。共同体の構成員であれば、誰でも無償で、必要に応じて利用できるものであったからだ。

(・・・)

 ところが、囲い込み後の私的所有制は、この持続可能で、潤沢な人間と自然との関係性を破壊していった。それまで無償で利用できていた土地が、利用料(レント=地代)を支払わないと利用できないものとなってしまったのである。本源的蓄積は潤沢なコモンズを解体し、希少性を人工的に生み出したのだ。 242-243頁

 土地でも水でも、本源的蓄積の前と後を比べてみればわかるように、「使用価値」(有用性)は変わらない。コモンズから私的所有になって変わるのは、希少性なのだ。希少性の増大が、商品としての「価値」を増やすのである。

 その結果、人々は、生活に必要な財を利用する機会を失い、困窮していく。貨幣で計測される「価値」は増えるが、人々はむしろ貧しくなる。いや、「価値」を増やすために、生活の質を意図的に犠牲にするのである。 251頁

脱成長コミュニズム

コモンズが解体されてすべてが商品となった。生きていくためには貨幣を稼いで商品を買わなければならない。だから労働に追い立てられる。消費をする。コマシャーリズムが欲望を刺激し、もっと消費せよという。満たされない。資本主義は人々を欠乏の感覚に落とし込む。

この果てしない循環から逃れる道がある。「脱成長コミュニズム」だ。

マルクスによれば、コミュニズムとは「否定の否定」である。第一の否定は資本によるコモンズの解体、第二の否定はそれを否定すること。否定を否定し、コモンズを再建し、資本主義的な豊かさではなく、「ラディカルな潤沢さ」を回復するのだ。

ポイントは「人々が生産手段を自律的・水平的に共同管理する」ことである。利潤を目的としない、かといって国有化するのでもない、市民が運営する。「〈市民〉営化」だ。

〈コモン〉を通じて人々は、市場にも、国家にも依存しない形で、社会における生産活動の水平的共同管理を広げていくことができる。その結果、これまで貨幣によって利用機会が制限されていた希少な財やサービスを、潤沢なものに転化していく。要するに、〈コモン〉が目指すのは、人工的希少性の領域を減らし、消費主義・物質主義から決別した「ラディカルな潤沢さ」を増やすことなのである。

〈コモン〉の管理においては、必ずしも国家に依存しなくていいといのがポイントだ。水は地方自治体が管理できるし、電力や農地は、市民が管理できる。シェアリング・エコノミーはアプリの利用者たちが共同管理する。IT技術を駆使した「協同」プラットフォームを作るのだ。

「ラディカルな潤沢さ」が回復されるほど、商品化された領域が減っていく。そのため、GDPは減少していくだろう。脱成長だ。

 だが、そのことは、人々の生活が貧しくなることを意味しない。むしろ、現物給付の領域が増え、貨幣に依存しない領域が拡大することで、人々は労働への恒常的プレッシャーから徐々に開放されていく。その分だけ、人々は、より大きな自由時間を手に入れることができる。 266-267頁

感想

以下、ぼくの感想をば少し。

とても面白かった。挑発的でエネルギーに満ちてゐる。「マルクスが書けなかった資本論」を読み解いていく第四章などはドキドキした。

人間からの収奪も環境からの収奪も限界だし、倫理的にも許されないと考えるので、資本主義どうにかならんかと思ってゐる。だから「脱成長コミュニズム」の構想には強く共感する。具体的要求として提示されてゐる五点、すなわち、「使用価値経済への転換」、「労働時間の短縮」、「画一的な分業の廃止」、「生産過程の民主化」、「エッセンシャル・ワークの重視」のすべてに賛成だ。

他方で、ぼくは人間というものにあまり期待してゐないので、正直言って、資本主義は終らないよな、という気持ちもある。斎藤さんは、

「全体としては幸福で、公正で、持続可能な社会に向けての「自己抑制」を、自発的に行うべきなのである」272頁

と書いてゐる。そんなことを人間に期待できるだろうか。自由に競争して勝ちたいというのも人間の本能で、その本能に資本主義はばっちり合致してゐる。多くの人にとって宗教が倫理的に生きるための規矩ではなくなってゐる現代において、「自己抑制」は可能だろうか。

市民が管理するというが、そのような素晴らしい市民社会を作るのにはけっこう時間がかかると思う。間に合うだろうか。また資本や富裕層や国家は「脱成長コミュニズム」運動に対してどう対処するだろう。これを潰しにかかってきた場合に勝てるだろうか。

また日本社会は「コミュニズム」ということばに対するアレルギーが強く、「コミュニズム共産党→中国・北朝鮮→日本を乗っ取られるぞ」式の下劣なプロパガンダがいまだに有効だ。この偏見を解除するのにも長い時間がかかりそうだ。

そう考えると、「ポイント・オブ・ノー・リターン」の前に「脱成長コミュニズム」が社会全体を変えるのはむづかしい気がする。

ローマクラブが「成長の限界」を発表したのは1972年だった。それから40年経ってようやくいまくらいの環境意識で、日本ではまだ国政選挙の争点にさへならない程度の危機感なのだ。もっと状況が悪化して、ほんとうに少しづつ現実が動いていくという感じぢゃないかしら。

ぼくはこう認識してゐるけれど、もちろんこれ以上状況が悪化するのはイヤなので、自分にできることはしていきたいと思う。悲観的に考えて、楽観的に行動する、ということかな。ぼくがこんなふうに読んだり書いたりダンスしたりするのは、資本主義への抵抗のつもりなんだけれど、相手のほうはちっともこたえてなさそうですね💦

負けてばかりでございます、トホホ😅

というわけで、イヌの散歩に出ましょうか🐶