手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「新世紀のコミュニズムへ」大澤真幸

新世紀のコミュニズムへ大澤真幸 NHK出版新書 2021

否認

コロナ禍のなかで世界各国のGDPは下がり、失業者も増え、消費は冷え込んでゐる。経済は基本的に悪化してゐるはずなのに、どういうわけか株価は上がってゐる。この倒錯的な状況は、集合的な「否認」のメカニズムが働いてゐることを意味してゐる。資本主義という船が沈みかけてゐるのに、ほんとうに沈没したときのことを考えるとあまりに悲惨であるために、これを認めない。実体経済の裏付けのなしに、株だけが売買される。

資本主義とは永続的な禁欲的なシステムである。これを支えてゐるのは「いつか救済される=いつか利潤/利益を得て裕福になる」という幻想である。実際に救済されるのはブルジョワジーであり富裕層である。幻想のままに終わるのがプロレタリアートであり貧困層である。

コロナ禍における自粛・禁欲は、富裕層を含めてすべての人達をプロレタリアートの境遇に置くものだった。つまり「いつか救済される」という幻想を打ち壊すものだった。救済の約束のないところに、禁欲は成り立たない。

 ここから、あの株式市場の不可解な活況において露骨に示されているような執着、「資本主義は死につつあるわけではない。今でもまったく健康だ」というあの否認が出てくる。経済活動から全面的に撤退するような禁欲は、資本主義的な救済について人々が強い確信をもっていなければ不可能だ。資本主義を(ほぼ)否定するような経済の停止は、資本主義を前提にせざるをえない。これは、むろん、端的な矛盾である。 89ー90頁

ベーシック・インカム

感染の抑制と経済活動のどちらを優先すべきか。この問いに正しい答えはない。どちららかを犠牲にすることはできない。両方を取らねばならないのだ。「あれも、これも」に執着して、事前にはなかった選択肢を見つけ出すべきだ。実に、すでにその方向への歩みは始まってゐる。仕事を失った人や休まざるをえなかった人に必要な額の金額を給付することである。両方を取ったことになる。

このやり方が長期化し、ほとんど恒久化した場合に、「ベーシック・インカム」と呼ばれる制度に近づくだろう。ベーシック・インカムとはすべての個人にいかなる条件もつけずに定期的に給付される現金である。ベーシック・インカムは現在の社会保障制度を維持した状態で給付されねばならない。

では財源はどうするか。増税をせずに資金を用意するとなると国債の発行しかない。どこの国も政府の財政は赤字であるが、いくら借金があっても問題がないと考えてゐる経済学者はほぼゐない。一般には許容される財政赤字には一定の限度があり、それを超えると、例えば増税をして財政均衡に近づけねばならないと信じられてゐる。増税されるなら、ベーシック・インカムがあっても意味がない。

 さらに、長期的には、増税よりももっと恐ろしいことが待っている。極端なインフレである。政府が借金を増やしつつ、財政支出を増大させていったときに起こりうる最も恐ろしいことは、ハイパーインフレーションである。インフレとは貨幣の価値が下がることだ。ある通過がハイパーインフレーションになれば、それは、その通貨を使用していた国民の資産が急に小さくなることを意味する。つまり、すべての国民の貯金が、ある日突然盗まれたようなものだ。これは、パンデミックに勝るとも劣らない破局である。 116頁

MMTに賭けてみたらどうか

ここに、ありがたい経済理論が与えられる。「現代貨幣理論(MMT)」である。MMTによれば、政府の財政には予算制約がない。だから心配せずにどんどん国債を発行して資金を調達し、高レベルのベーシック・インカムを確立したらよい。理論的にはそのように言うことができる。

MMTは「貨幣の本性は負債である」との認識に基づく。この洞察は正しい。貨幣とは、流通する「債務証書」である。貨幣は政府の債務を記した書類である。けれど貨幣を政府に突きつけて「借金を返せ」といっても政府はなにも返してくれない。返すにしても貨幣で返すしかないが、その貨幣が債務証書なのである。だからMMTによれば、貨幣は返す必要のない負債なので、いくら借金をしても大丈夫なのだ。

では、なぜ債務証書が流通するのか。

(・・・)流通の動因になっているのは租税である。政府は、貨幣ーーつまり政府の債務証書ーーで支払われた租税だけを受け取る。人々は、政府に税を治めなくてはならない、と思っている。このことが、政府が発効した債務証書(貨幣)が流通する最終的な原因になっている、MMTによれば、租税の機能は、貨幣を流通させることにある。普通は、租税は、政府が国民のために何か役立つことをするのに必要な費用として徴収されている、と考える。しかし、MMTにとっての租税は、そのようなものではない。租税の目的は、純粋に自己準拠的なものだ。つまり、租税の目的は、租税になること、租税として政府に回収されることのみにある。 120頁

なぜ人々は政府に税を納めるのだろうか。これは奇妙なことだが、どういうわけか人々は政府に対して負債感をもってゐるからだ。本当は政府が国民に対して借りがあるのに、なぜか人々は政府に借りがあると感じ、政府の債務証書である貨幣により、その借りを清算してゐる。それが納税だ。

貨幣のうちに含意されてゐる政府の債務は返済されることはない。にもかかわらず、それがいつの日か返済されるかのように扱い、流通してゐる。それは人々の政府に対する無根拠な信頼と結びついた現象であり、政府への負債感とも表裏の関係にある。

私的所有の領域からコモンズを取り戻す

現代社会においてなぜ格差がこれほど大きいのか。その最大の原因は、本来コモンズ(共有)であるべきものが私的に所有されてゐるからである。私有財産制を破壊し、広範なコモンズを確保せねばならない。

これは資本主義の初期に起きたことを反転させる試みでもある。18世紀のイギリスで少数の地主がコモンズを私有地として囲い込み、人々を締め出した。その逆に、囲い込みを破壊し、私的所有の領域からコモンズを取り戻すのだ。

このような提案は、人々が私的所有に執着してゐる平時には賛同を得られないだろう。しかしコロナ禍のような惨事を活用すれば可能である。

ベーシック・インカムは一種の贈与であって、資本主義のもっとも重要な前提である私的所有の原理に反するものだ。これをMMTを活用して推し進め、私的所有の原理を徹底して相対化していくべきである。

MMTは資本主義が自明の前提としてゐる「負債が全面的に清算されることはないのに、いつか必ず返済されるかのようにふるまう」というゲームの正体を暴露するものだ。王様が裸であるという事実を否認できなくなったとき、MMTは挫折するだろう。しかしいづれ失敗し、資本主義というシステムの根幹を否定するものだからこそ、やるべきでなのである。

 その結果、何が生まれるのか。MMTの理論は、われわれが国家に対してもっている不可解な負債感を、暗黙のうちにーー自覚なしにーー貨幣の流通の前提にしていた。しかし、MMTをあえて自己破綻するほどに活用するということは、国家に対するこうした負債感も消えるということである。言い換えれば、国家なるものへの依存や信頼も消滅に向かう。国家という媒介を消し去ったときに、何が現れるか。国家という媒介なしに、ベーシック・インカム的な実践だけが残ったとしたら、そこに現れるものは何か。

 それこそ、人類が長いあいだ夢見たようなユートピアではないか。人はそれぞれ能力に応じて貢献し、必要に応じて取る。国家の代わりに出現するのは、要するに、このスローガンに実質を与える究極のコモンズ(共有)である。 128-129頁