手探り、手作り

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「経済学の考え方」宇沢弘文

経済学の考え方宇沢弘文 岩波新書 1989

季節の変わり目だからだろうか、7月からずっと忙しくしてきたその疲れが出たのだろうか、今週は心身ともに状態がよくなかった。しんどいぜ。今週末はだらだらしよう。

7月から8月上旬にかけてはデルタ株が大流行してたいへんなことになってゐたわけだけれど、8月後半から急速に感染が収束にむかい、10月からすべての行動抑制措置が解除されることになった。収束の理由について、専門家もよくわからないといってゐる。コロナ禍で、専門知や学問の限界ということを痛切に感じる。なぜ東アジアで被害が小さいのかも、いろいろ説が出て来たけれど、結局よくわからないのだよね。

必要にせまられて、8月から経済とかお金に関する本ばかり読んでゐる。同じことを感じる。経済学も、貨幣とはなんなのか、どうすればバブルを防げるのか、どうしたら安定した景気が続き、全体が豊かになるか、よくわからないんだね。

「経済学の考え方」にはアダム・スミスに始まる経済学が時代とどう向きあい、どう発展してきたのかが書かれてゐる。分析して、理論をつくり、その理論が現実に裏切られ、反省のもとに新しい理論をつくり、それがまた現実に裏切られる。これの繰り返しだ。

乱暴にまとめると、自由が大事なので規制をなくそうという立場(アダム・スミス新古典派理論、反ケインズ主義)と、いや政府がちゃんと介入しなきゃ社会がこわれちゃうよという立場(マルクスケインズ、ジョージ・ロビンソン)が交互に登場する。

いまは80年代に登場した新自由主義の延長にあるようだ。こんなに長く続いてゐるのはソ連の崩壊が効いてゐるのかな。最近はそれも限界で、成長は鈍化し、格差は拡大し、政府は財政赤字に苦しんでゐる。(嗚呼、なつかしき、トリクルダウン、、、)

この文脈において、最近MMT(現代貨幣理論)というのがでてきた。これによれば、政府は自国通貨建ての借金(国債)ならいくら増やしても大丈夫らしい。問題はデフレなのであるから、過度なインフレが発生しない程度に、プライマリーバランス財政均衡)を気にせずに、どんどんお金を刷ったらよいと。

ぼくはこの説が妥当であるのかさっぱりわからない。とても魅力的で、面白いものであることはわかる。けれど、「ワンチャン」いけるんぢゃね? みたいな説にも思える。それは「そんなうまい話あるかよ」というぼくの保守的な感覚がそうさせる。

以下、ノートをば。

 アダム・スミスの経済学は、各人の利己心が最大限に発揮できるような自由な市場経済制度のもとで、社会的見地からみてもっとも望ましい資源配分が実現するという考え方にもとづいていた。そこには、貧困とか分配の不公正に対する問題意識は影をひそめていた。分配の問題は、リカードによって経済学の中心的な課題とされたのであるが、さらに貧困、分配の問題を真正面から取り上げたのがカール・マルクス(Karl Marx)であった。

 マルクスは、貧困の問題を、個別的な、偶然的な問題としてではなく、生産と交換にかんする制度的条件によて規定される階級相互の間に存在する対立、矛盾からの必然的帰結として理解しようとした。マルクスの考え方の根底には、歴史上の各時点で、それぞれの社会の経済的構造を基礎として、政治的、法律的、文化的な上部構造が規定されるという唯物史観があった。そして、資本主義的生産様式を一つの歴史的な過程としてとらえ、資本主義経済における経済循環の運動法則を解明し、剰余価値の概念にもとづいて分配問題にかんする分析を展開した。資本主義階級が、労働者の生産したもののうち、商品としての労働力に対する市場の評価、すなわち賃金を超えた価値を剰余価値として獲得することによって、資本主義経済における生産と再生産のプロセスが規定されてゆくということを明らかにしたのであった。 39-40頁

 マルクスの資本は一種神秘的な概念である。マルクスの資本は、資本主義経済の深層にあって、その生産関係を規定し、貨幣資本→生産資本→商品資本→貨幣資本という形をとって、絶えず循環しつづける。資本が人格的に表現されたものが資本家であって、資本家は一見自らの意志で、自らの価値判断にもとづいて行動しているようにみえながら、じつは資本の意図を実現してゆく一つの人格的存在にすぎない。資本はまた、その意図と目的がもっとも効果的に実現できるように資本主義制度そのものも変えてゆく。資本主義という制度自体もじつは、この資本と不可分には考えられない。資本主義という言葉は、この資本の本質をよくあらわしている。

 資本の目的とはなにか。それは蓄積することである。したがってできるだけ大きな利潤を追求しようとするのが資本の本性であって、そのためには労働力の搾取がもっとも効果的な手段となってくる。資本は労働力を最大限に搾取することによって、最大の利潤を獲得して、蓄積せよという至上命令に応えることができる。このとき、労働力をどこまで搾取することができるかということは、労働力の再生産という経済的な要請によって決まってきて、そのために必要な社会的、政治的な条件が逆に規定されてゆくというのがマルクスの主張するところでもあった。 41-42頁

 ケインズの経済学は一方では、第二次世界大戦後の世界の多くの国々における経済学研究の主軸を形成してゆくとともに、他方では、経済政策策定の過程で指針的な役割を果たし、多くの国々で、比較的安定した経済成長を享受することを可能にしたのであった。このような意味で、一九三〇年代後半から一九七〇年代の初め頃までの期間を、ケインズの時代と呼ぶのは必ずしも誇張ではないように思われる。それは、一九三〇年代の恐慌に始まって、第一次石油危機を直接の契機とする世界経済の大変動期に終わる。ケインズ経済学は、大恐慌が資本主義に与えたショックに対する一つの経済学的処方箋であり、同時に、ロシア革命後の社会主義の台頭に対するアンチテーゼを形成するものであった。大げさな表現を用いれば、ケインズ経済学は、世界資本主義の一般的危機の生み出した産物であり、その政策的帰結は、この一般的危機を解決するための処方箋を与えることになったといっても過言ではないであろう。 114-115頁

 一九七〇年代を通じて、とくにアメリカの諸大学で、一種の流行現象となった反ケインズ経済学の考え方は、現実の経済におけるさまざまな制度的、時間的制約条件を捨象して、新古典派経済理論の理論前提をさらに極端な形で推し進め、論理的演繹と統計的推計を通じて、ある特定の政治的イデオロギーにとって望ましい政策的命題を導き出す。そして、ケインズ経済学に代わって、新しい経済学の理論的枠組みをつくり出しているかのような印象を与えてきた。しかし、これらの考え方はいずれも、理論的整合性という点からも、また現実的妥当性という点からも、浅薄かつ皮相的であって、しかもときとして深刻な矛盾を含んでいる。いずれもケインズ経済学に代替しうるものではなく、新しい経済学のパラダイムが形成されるまでの鬼火現象にすぎない。 212頁