「犬の科学」という本を読んでゐたら、犬のコミュニケーション、すなわち信号の交換について論じたくだりで、こんな記述にぶつかった。
信号が情報を送る手段として成立しているのは、送り手にも、受け手にも、その情報交換が何らかの役に立つからである。しかし、どのように役立つかは、両者でまるで違うかもしれない。信号の受け手は、送り手の心を読もうとし、一方、送り手は、受け手の行動を操作しようとする。そこで「はったり」が通用するのだろう。冷静で、自信のある狼や犬なら、高い社会的地位にあるふりをして、相手にとうてい敵対できないと思わせる。これは、人間社会でも決して珍しい現象ではない。空威張りがまかり通り、はったりが暴力そのものより威力を発揮することもある。 111頁
短い時間だったけれどかつて世話になったある人のことを思いだした。その人は業界ではそれなりに名の通った人で、一定の影響力(あるいは権力と言ったほうがよいかも知れない)をもってゐた。ここで仮にN氏と呼ぼう。
N氏は自身のホームページに載せるための映像制作をある事業者に依頼した。しかし希望する仕上がりのものがあがってこない。相手の仕事に不満がある。ある日、とてもひどい目にあってゐるという調子で、そのことをぼくに愚痴り始めた。そこでギョっとするようなことを言った。
「何度作り直させても言う通りにしないから、今度ちゃんとしなかったら怖い人から電話させますよ、って言ってやったの」
ぼくは「はったりだ」と思った。こういうはったりを平気で言える人はサイコパス的な気質なのだと思う。マウンティングの能力に長け、相手を委縮させるために、反射的にウソをつくことができる。自分ではウソと思ってゐないからある種の迫力がある。
「怖い人」はあなたでしょう。まるでヤクザの脅しぢゃないですか。
N氏は業界では有名であり、いろんな人が「スゴイ」といい、たしかにある面の能力は高い人だから、ぼくはその人と交際を持ち、いろいろ学ばせてもらえることを嬉しく感じてゐた。ぼくは若く、まだ権威主義のおそろしさを知らなかった。
この台詞でぼくは目が醒めた。醒めた目で見ると、これまで「スゴイ」と感じてゐた部分も、実に虚飾でいっぱいであることに気が付いた。自分がその世界についてまるで知らないから、「はったり」に騙されてゐたのだ。
N氏は「高い社会的地位にあるふり」をするのが上手だった。「自分はスゴイのだ」と思わせることがたくみだった。世の中には、そういう詐欺師的な才能のある人がゐる。知らないことを知ってゐるように見せたり、よく考えれば矛盾があるのに、口八丁でけむに巻いてその場を制圧してしまう特殊な能力だ。
ウソだと分ってゐても、ぼくは「はったり」がとても怖い。内容ではなく、「はったり」をかます人の精神が怖い。この人はヤバイ人だと思って、ぼくはN氏のもとを去った。
N氏のような人物はどこにでもゐること、そういう人を好きな人が意外に多いことを知るのは、また後の話。