手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り🌴

「マスコミが報道しない真実」について

だって牛が飲むものなんですよ

20代の半ばに5年ほどタイ古式マッサージのセラピストをしてゐた。そのときの同僚に勉強熱心な男がゐて、解剖学や生理学や手技療法などについて、本を読んだりセミナーに行ったりして貪欲に学んでゐた。

その彼があるとき「林さん、ぼくは牛乳を絶対に飲みません。先進国でこんなに牛乳を飲んでるのは日本くらいのものですよ」と言った。「へえ、ぼくは牛乳好きですけども。なぜいけませんか?」と聞くと、彼はさも当然だという調子で「だって牛が飲むものなんですよ」と答えた。

彼によれば、牛乳はヒトに適してをらず、吸収がよくないので、一般の通念とは逆に骨が弱くなり、骨粗鬆症になる。さらにはガンリスクも高まる。科学者や医者が警鐘を鳴らしてゐて、裏付けるデータと論文もあるらしい。だから牛乳を飲まないほうがよい。これをシンプルにいうと「だって牛が飲むものなんですよ」になる。

ぼくは、まあそういう意見もあるよね、という感想しかなかった。醤油だって取り過ぎれば体に悪いのだし、酒でもタバコでも、ほどほどにしてそれで気分がいいなら、それでよいのではないか。

牛乳を飲んで病気になる人だってゐるだろう。そういうデータを集めて論文を書く学者もあるだろう。それだけの話ではないかしら。現実はつねに複雑であるから、いろんな切り取り方ができるものだ。

きっと彼はそもそも牛乳がそんなに好きではなく、好きではないところへ、なにかのきっかけで「牛乳ヤバイ」という不安が入り込み、それでいろいろ調べてみると「牛乳ヤバイ」系の情報をたくさん発見し、そのエビデンスによって牛乳への不安に保證を与えたのだ。

体内に異物を取り込む

ぼくは牛乳は好きだけれど食べられないものが多い。アレルギーではなくただ食べられない。聞かれたら、匂いがダメだとかヌメヌメしてゐるのが気持ち悪いとか、いろいろ答えるけれど、本当を言えば理由などなく、ただもうダメなのである。

これはおそらく「体内に異物を取り込む」という行為そのものへの根源的な不安に起因する。それがなにかのきっかけで特定の食べ物と結びつくことで、その食べ物が喉を通らなくなる。なんとかしたいけれど、どうにもできないので、ぼくは会食のときにはかなりの確率で気まづい思いをすることになる。

ワクチンを打ちたくないというのも、おそらくその根本は「体内に異物を取り込む」ことへの不安に由来する。

牛乳のように多くの人が日常的に飲んでゐるものでさへ、一度不安が芽生えてしまえば「だって牛が飲むものなんですよ」という理由で飲まなくなる。人が造った、説明を聞いてもいまいちよくわからない、急ごしらえのワクチンを「なんか怖い」と感じるのは極めて自然な反応だ。

いまワクチンを巡って流通し拡大傾向を見せてゐるさまざまなニセ医学・トンデモ科学・陰謀論は、「だって牛が飲むものなんですよ」と本質的には同じである。

ただ、新型コロナウルスは変異を続けてをり、今後どうなるかわからないし、またワクチンの機序は素人には理解困難で、さまざまな政治的思惑や利権構造が見えてしまうために、ひょっとしたら、いやあるいは、と思えてしまうところがある。

・だって人体実験なんですよ。

・だって副反応でこんなにひどいことになるんですよ。

・だって数年後に死ぬかもしれないんですよ。

・だってmRNAワクチンはヒトの遺伝子を組み換えてしまうんですよ。

・だってマイクロチップが埋め込まれて5Gで操作されるんですよ。

・だって人口削減計画が何年も前から進行中なんですよ。

後の3つは荒唐無稽だけれど、前の3つは否定できないものがある。人体実験だと言って言えないことはないし、副反応でひどいことになる人は実際にゐるわけだし、数年後になにがおこるかは、究極的にはそのときにならないとわからない。だからこの段階まではニセ医学でも陰謀論でもなんでもない。不安な気持ちがあれば誰でも考える。

問題は後の3つである。前の3つと後の3つとの間には大きな断絶がある。人々を後の3つにまで導き、ニセ医学や陰謀論の信奉者に変貌させるためには、この断絶を越えてもらわねばならない。そのための方法論が、実は存在する。

第一に、否定しようのない前の3つを誇張気味に喧伝することによって、不安を煽り、人々のこころに揺さぶりをかけ、強力なバイアスを埋め込む。第二に、その断絶に橋をかけ、こっちへおいでと呼びかけ、後の3つに代表されるようなデマ/フェイク言説を信じさせる、あるいは少なくとも「ひょっとしたら」と思わせる。

その橋の名を「マスコミが報道しない真実」という。

マスコミが報道しない真実

いま最も深刻なデマ情報は新型コロナウルスやワクチンに関するものだが、この方法論は他の分野、たとえば排外主義や人種差別や歴史修正主義に関する煽動においても利用されてゐる。ニセ医学でも陰謀論でも歴史修正主義でも、煎じ詰めれば、使ってゐる手口はみな同じだ。

第一段階ではきちんとした事実が織り込まれた文脈を提供する。その文脈には第ニ段階へ向かう強烈なバイアスがかけられてゐる。これを煽って煽って、ゆさぶりをかける。たしかに「みんな」が言ってゐることと違うし、ちょっと過激ではあるけれど、これは信憑性があるぞ、と思わせる。

認知がゆらいだところで「マスコミが報道しない真実」という橋をかけ、第二段階に招き入れる。検索して、検索して、検索して、完全に渡りきってしまうと、我知らず、陰謀論者や歴史修正主義者になってゐる。

では、なぜ人はその橋をわたるのだろうか。

もちろん、橋をわたるといいことがあるからだ。「マスコミが報道しない真実」を求めて「検索」することは、自分は他の人より賢くて頭が切れる、優れた人間だと思わせてくれるし、冒険みたいで楽しいし、自分は特別な選ばれた人間なんだと感じられる、なんなら愛国の士みたいな気持ちになれる。

「マスコミが報道しない真実」系インフルエンサー達は、そのような、人々の優越意識や選民意識や特権意識や承認欲求や使命感を刺激する。そのための定型句が「マスコミが報道しない真実」であり、そのバリエーション、すなわち「メディアが報じない事実」や「日本のテレビが言わないこと」や「教科書が書かない歴史」である。

これらの文句はすべて「あなたはふつうの人とは違う、特別な、選ばれた人間なんですよ」と言ってゐる。

人はまわりと同じでないと不安になる一方で、他の人と異なる特別な存在でありたいと願ってゐる。特別でありたい、ちょっと違ったものの見方をしたい、独自の視点で時事問題を切りたい、既存メディアはもうダメだ。そう感じた人の前に、「マスコミが報道しない真実」系インフルエンサーがあらわれる。言葉巧みに自身のコンテンツに誘導し、アクセス数を稼ぎ、書籍を売り、セミナーを開き、金銭的利益を得る。

「マスコミが報道しない真実」の探求者はみな自分が公平だという。「マスコミ報道は偏向してゐる。わたしは既存メディアとは異なるソースからたくさんの情報を集めて、フラットに判断したいのです」と。

なるほどマスコミ報道には問題がある。誤報もある、煽りもある、偏向してゐるかもしれない。しかし「マスコミは偏向してゐる」という断定から出発した検索の旅は、さっそく自分が考える「マスコミの偏向」とは逆方向への「偏向」をはらんでゐる。

それに最後まで気づかずに橋を渡りきってしまうと、その人は「マスコミが報道しない真実」系インフルエンサーの「信者」となり、彼の目には他の人が「マスゴミ」に洗脳された愚かな人達に見え、「布教」を始めるのである。

サンクコスト、バイアス、フェイク

自身の偏向に気づけない理由として「サンクコスト(埋没費用)効果」を挙げることが出来る。費やした時間やお金に見合うだけの成果を上げたいがために、誤りを認められなかったり引き返せなかったりする心理を指す。

「マスコミが報道しない真実」の探求者はみな勉強家で、ほんとうに熱心に検索する。すごい時間と労力をかけて、検索し、ブログを読み、動画を見る。それだけ頑張って調べた結論が「テレビ文化人」や「御用学者」の言ってゐることと同じであったら、もうまったく割に合わない。もっと特別でないと満足できない。

そういうわけで、投下した時間と労力が膨らむほどに、特殊な見解、みんなの知らない真実を欲するようになる。そしてそれは見つかるのである。研究者や、教授や、医者や、元○○や、外国の動画の字幕や、どこかの機密文書が、さまざまな真実を暴露してゐる。隠された真実を知り、人より優位に立ったと思い込む。

ここで「マスゴミ」を馬鹿にしたり、誰かを「○○脳」と揶揄したり、「あなたは洗脳されてゐる!」などと周囲の人を嘲笑するようなことを言ってしまうと、もう後に引けない。戻るわけにはいかないので、どんどん自分のバイアスを強化していくハメに陥る。

陰謀論の特徴は、それが外れても、その外れたことを説明するような別の陰謀論が次から次へと出て来ることである。いくら支離滅裂でも、こころの中で「ちょっとおかしいかも」と思ってゐても、さんざん周りの人を馬鹿にしてきた以上いまさら引っ込みがつかない。自分で自分を騙していくしかない。あいつらの仕業なんだ、と。

バイアスほど怖ろしいものはない。

ワクチンは危険だという強い思いが心に巣食ってしまうと、接種後の「本当の」死者数は厚労省が発表した人数の10倍あるらしい、という真偽不明の情報も信じてしまう。中国人・朝鮮人が邪悪な「反日」の人達であるという偏見が育ってしまうと、やがて南京虐殺はなかったと言い出すだろうし、朝鮮人が井戸に毒を入れたという噂を信じるだろう。

バイアスの前にはファクトもエビデンスも無力である。

「マスコミが報道しない真実」系インフルエンサー達の罪深い点、糾弾すべき点はまさにここにある。彼らの言説は決してフェイクとデマばかりではない。たくさんの「事実」があり「痛快な分析」もある。政府もマスコミもインテリも完全ではない以上、つっこみどころはある。それらをつなぎあわせて、バッサバッサと切り捨てて、痛快な物語をつくりあげる。そこに明らかな虚偽があるわけではない。事実に基づくバイアスたっぷりの物語を大量に浴びせかける。

バイアスを埋め込み、囲い込みに成功すれば、もう言ったもの勝ちだ。真偽も正邪も関係ない。「特別な/選ばれた自分」と「マスコミに洗脳された愚民」がゐるだけの簡明な世界だ。

代替医療、スピリチュアル

冒頭に、ぼくがかつてタイ古式マッサージのセラピストであったことを記した。タイ古式マッサージは広義における代替医療の一つだ。代替医療とは、鍼・灸・指圧・マッサージ、柔道整復術、整体、カイロプラクティックオステオパシーなど、西洋医学ではないもの、病院で医者が施す医療ではない治療様式のことである。

代替医療の自己規定は「非西洋医学」であり、「西洋医学が切り捨ててしまったもの」である。だから代替医療に従事する人は、程度の差こそあれ、基本的傾向として西洋医学への対抗意識をもってゐる。

「科学」を自称する西洋医学は人間の体を機械だと考えてゐる。部分だけを見て、全体を見ない。しかしいくら部分や数字を見ても人間はわからない。大切なのは全体の調和だ。目で見える様相や検査でわかる数字に基づく因果関係にとらわれず、生命現象の総体を見て診断し、施術を行うことが必要だ。こんなふうに考える。

これはスピリチュアルな感性で人と向き合うということである。だから代替医療に従事する人の多くはスピリチュアルな感性を備えてゐる。その度合いが強く「アンチ西洋医学」の意識が強い場合、彼らの言説はときに常識の閾を超えて「ニセ医学」に接近する。それが先鋭化すると明らかなデマや陰謀論となる。

スピチュアルな人が特殊な感覚や能力をもってゐるのは確かにその通りである。実際に不思議な力がある人もゐるし、カリスマを感じさせる人もゐる。しかし問題は、自分は特殊であるということを過剰に評価して、その発想を社会問題や政治問題にそのまま適合してしまう人が一定の割合でゐることである。

表面的にはこう見えるけれど、実は隠されたこんな意味やあんな意図があるのだ、という裏読み的思考、そしてAとBには実はこんなつながりがあるのだ、という関係づけ。スピチュアルな人はそういうのがとても好きである。そういう見方は楽しいのだが、リベラル・アーツの素地が弱いところへ自信過剰の裏読み的思考を持ち込むと、けっこうあっさりと陰謀論にはまってしまう。

コロナパンデミックやワクチンに関するデマの発信/拡散者に代替医療やスピリチュアルに属する人が多いのはこういう次第による。

彼らは人間の生命力を重視し、全体の調和を重んじ、人知を超えたエネルギーのことを考えてゐる。例えば、地球全体をひとつの生命体と考えると、このパンデミックは自然の大きな摂理の一部であり、それを人工的なワクチンで抑え込むという発想は、人間の賢しらではないのか、そんなことをしたらまた別のしっぺ返しを受けるのではないか。そういう発想だ。

なるほどこれは否定できない、重要な観点だ。確かにぼくたちは消毒をし過ぎてゐるし、明らかに不要な場面でもマスクを外さない人が多い。マスコミは不安を煽りすぎだし、政府はワクチンをせかし過ぎだし、製薬会社は儲け過ぎだ。いろいろとおかしなことがある。

だからといって「新型コロナウルスは存在しない」とか「ワクチンが感染を拡大してゐるのだ」といった「真実」を持ち出されると、それはさすがに荒唐無稽だと返すほかない。「反西洋医学」「反マスコミ」というアンチの気持ちが根本にあり、そこから「マスコミが報道しない真実」を求めて検索を続けていけば、やがてそういう極端な意見にたどりつく。

反日依存型愛国

スピリチュアルな感覚はナショナリズムとも相性がいい。スピリチュアルな世界観で重要なのは、見えないエネルギーや大きな流れを感じ、全体性へと没入し、自分を超えた巨大な存在と一体化することである。それは最も高度な場合には、「究極的一者」とか「至高の存在」との合一を果たす。しかし普通はそこまで行けないので、もう少し具体的で世俗的なものを求めることになる。

例えば「日本」や「天皇(制)」は、身近にある、個体の生を超えた大きな存在だ。一体化する対象がこういうものである場合に、スピリチュアルな感覚はしばしばナショナリズムに転化する。

寺や神社や原生林などのパワースポットを巡って日本の霊性に触れた人が「やっぱり日本はスゴイ」と感じ、「天皇制を守ってきた日本は特別な国だ」と考えるようになるのはかなり一般的な現象だ。この「日本ってスゴイなあ」という素朴な感覚が、「日本人であることを誇り思う」という自尊心の高揚につながると、「日本」と「自己」との一体化が生じる。

それだけなら他愛のない愛国心に過ぎないが、「日本(自分)」を愛したいという気持ちがたかぶって、素晴らしい日本をもっと愛したい、日本を悪くいう奴が許せない、という具合に「非‐日本」への敵対意識が芽生えてしまうと、愛国心は排外主義とレイシズムに結びつく。すなわち「反日」を見つけ出して差別・排斥・攻撃することが「愛国」となる。

「中国・朝鮮・左・赤・共産党朝日新聞反日・暴力革命・秩序紊乱⇒やっつけろ」式の言論がそれだ。現在の「保守」勢力が標榜する「愛国」はこの「反日依存型愛国」である。そしてその象徴的存在が、安倍晋三前首相だ。

彼は2021年6月発売の月刊誌「Hanada」(8月号)での櫻井よしこ氏との対談において、次のように述べてゐる。(こちら

共産党に代表されるように、歴史認識などにおいても一部から反日的ではないかと批判されている人たちが、今回の(東京五輪)開催に強く反対しています。朝日新聞なども明確に反対を表明しました」

「彼らは、日本でオリンピックが成功することに不快感を持っているのではないか」

安倍氏らしい婉曲な表現で予防線を張ってゐるが、要するに、国威発揚イベントである五輪に反対する共産党朝日新聞反日で、その反日を批判する自分達こそが愛国者だと言いたいのだ。

五輪に反対してゐたのは職業も地位も思想もさまざまな人達であるのに、共産党朝日新聞だけを名指し、五輪の成功に不快感をもってゐる「反日」にでっちあげ、二人して「反日の人達ってやあね(と思ってゐる自分達は愛国者だ)」と気持ちよくなる。典型的な「反日依存型愛国」の論法だ。

反日依存型愛国」インフルエンサー達の常套句もまた「マスコミが報道しない真実」である。なぜなら彼らは「反日」を必要としてゐる。「中国・朝鮮・左・赤・共産党朝日新聞」の行為や言説をなんとかして「反日」と呼べるまでに誇張しなくてはならない。「反日」勢力が「日本=自分」を攻撃してゐるという図式がなければ、彼らの愛国心は機能せず、自己愛も満たされない。

そこで「マスコミが報道しない真実」が登場する。自分達は右翼だとか差別主義だとか批判されるが、それはマスコミ報道が大きく左傾化してゐるからそう見えるに過ぎない。大手メディアの報道以上に中国・朝鮮は反日的であり、経済的制裁や軍事的抑止力がいますぐ必要だ。韓国はやがて北朝鮮に吸収されて赤化し、共産主義勢力がいまにも日本を乗っ取ろうとしてゐる。これが基本文脈である。

また、逆方向に振れて、中国や北朝鮮の体制はいまにも崩壊しそうだとか、韓国がアメリカに見捨てられたらしい、といった「あいつらは終わりだwww」式の嘲笑も多い。

いづれにしろ、中国や朝鮮はマスコミ報道以上に「ヤバイ」という風に誇張する。もちろんあらゆる国・民族・政体には問題があるので、ここでも事実に基づく誇張が可能である。ファクトとエビデンスを材料にバイアスたっぷりの物語をつくりあげる。

バイアスがある閾値を振り切ると、陰謀論に転じ、明らかなヘイトスピーチを吐くようになる。DHCの吉田嘉明会長のように。(こちら

サントリーのCMに起用されているタレントはどういうわけかほぼ全員がコリアン系の日本人です。そのためネットではチョントリーと揶揄されているようです。DHCは起用タレントをはじめ、すべてが純粋な日本人です。

小生のことをマスコミ(これもコリアン系ばかり)は人種差別主義者だと言うが、人種差別というのは本来マジョリティがマイノリティに対して行う言動を指すのであって、今や日本におけるコリアン系はマイノリティどころか日本の中枢をほとんど牛耳っている大マジョリティである。

ここまで明確なヘイトスピーチを垂れ流す人は多くない。しかし吉田氏の世界認識は「反日依存型愛国」言説が提供するバイアスの延長線上にある。それは地続きだ。吉田氏率いるDHCグループの一員である「DHCテレビ」は「虎ノ門ニュース」という番組を制作配信してゐる。ここが「反日依存型愛国」インフルエンサー達の拠点である。

2019年、安倍晋三前首相はその「虎ノ門ファミリー」を、「各界において功績、功労のあった方々を招き日頃の労苦を慰労するため」の催しである「桜を見る会」に招いてゐる。アジア蔑視を政治リソースとして利用し、最高権力者としてお墨付きを与えた。安倍氏の罪は重い。

中国・朝鮮に対する差別とヘイト、およびそれを煽動する言説に対して、日本社会はあまりに「寛容」だ。それは極めて単純に、多くの日本人が中国/朝鮮を下に見たいと思ってゐるからである。「反日」を貶めて攻撃することでしか日本を誇れないほどに、この国は没落してしまったのだ。

消された真実、受難の物語

反ワクチン運動は個体の生に異物を取り込むことへの恐怖に由来し、排外主義は全体の生に異人を招き入れることへの不安に由来する。ファクトやエビデンスはこのような実存的不安をしづめることができない。

ここへ「マスコミ報道しない真実」という物語が導入される。これを実装すれば、世界の見え方が変わり、選ばれた特別な人間になれる。恐怖は「自分だけが真実を知ってゐる」という選民意識に、不安は「この真実を迷える子羊達に伝えなければ」という使命感に転じる。

この物語は基本的に事実に基づくが、そのなかに、ちょうどスパイスのように、ニセ医学や陰謀論や改竄された歴史が紛れ込んでゐる。物語全体が強いバイアスに侵されてゐるために、これを丸ごと受け入れてしまうと、埋め込まれたデマやフェイクを見抜けなくなる。どこかの時点でこの物語受容は「信仰」と呼ぶべき段階に到達する。そうなると、いわば橋を渡りきった状態であり、あまりに認識の隔たりが大きく、話が通じなくなる。

「マスコミは偏向してゐる」「テレビは絶対に見ない」と言い出すと初級である。この段階では特に問題はない。マスコミはどこもそれなりに偏向してゐるし、他に情報源はいくらもあるし、実際テレビを見る人はどんどん減ってゐる。

マスゴミ」「検閲」「洗脳」「○○脳」といった言葉を使い始めると中級である。この言い回しは優越意識や選民意識の存在を示唆する。みんな騙されてゐるが自分は違うぞという気分がある。

そして、「消された真実」を信じるようになると上級だ。誰かのアカウントが停止されたり、なにかの動画が削除されたりした場合に、「知られてはまづい情報だから消されたのだ、ということは、これが真実なのだ」と考える。影の支配者(ユダヤ人、フリーメーソン在日コリアンコミンテルン、ディープステート)が世界の全てを操ってゐるのだという陰謀論的思考があまりにも深く根付いてしまうと、このような「消された=真実」という発想をするようになる。

独裁国家であれ民主主義国家であれ、言論統制はどこにでもある。「真実」が消されてしまい、マスコミがデタラメを報じてゐることもあるに違いない。けれども、なにごとも程度問題であって、「消された=真実」という形式主義でものを考えるようになると、驚くほどズサンなつくりのフェイクニュースにひっかかってしまうのだ。

そこまでいくとなかなか話が通じないので、「こちら側」の人は彼らを強く批判したくなる。揶揄・嘲笑する人もゐる。しかしそれはやってはならない。

なぜなら「マスコミが報道しない真実」の探求が「信仰」の域に達してゐる人は、強い批判や嘲笑や罵倒を「受難の物語」に読み替えるからだ。消された情報を、消されたからこそ真実なのだと考えるように、周囲からの批判や非難を、真実を知ってゐるからこそ不当な扱いを受けてゐるのだと理解する。だから信仰はもっと強固になる。

信仰が深い場合には批判は逆効果であり、上から説教するなどもっての他である。かなりの偏りがあるとはいえ、彼らは実によく調べてをり、トリビアルな知識が豊富で、いろいろなデータやエビデンスを提示してくる。そこにはフェイクが含まれてゐるが、「マスコミ報道しない真実」の世界はフェイク込みで整合性がとれてゐる。そこに一種の知的快楽があるからなかなか抜け出せないのだ。

対応策としては、こちらが相手よりものを知らないテイで通すことが肝要である。しっかりと聞いて、なるほどそうなんですか、そういう考えもあるんですか、ちょっと読んでみます、などと言ってやんわりと受け止める。

「マスコミ報道しない真実」系インフルエンサーの主張はころころ変わるので、ちょっと時間が経つと明らかなホコロビが見えてくる。穏当なタイミングで、それを指摘すればよい。「あのときのあれ、おかしくないですか?」と。そうして、相手がバツの悪そうな顔を見せたら、「ちょっと情報源を見直したほうがいいかもしれないですね」と言う。

時間をかけて、相手が戻って来やすい雰囲気をつくることが大切だ。

凡庸であること

ぼくは代替医療やスピチュアルを否定したいのではない。むしろ絶対に必要で大切なものだと思ってゐる。けれどもそれらに関心をもつ心性や知的態度が、ニセ医学や陰謀論に流れていく一定の傾向を有することを示したかった。

安倍・菅政権において、公文書改竄、データ捏造、行政文書不開示(あるいは黒塗り)、議事録不作成などが常態化し、政府が発信する情報への信頼は地に落ちてゐる。また多くのテレビ・新聞はスポンサーとして緊急事態宣言下での五輪を推進してしまったために、もともと低かった信頼は底をついたかもしれない。

そしてネット世界では、うまいこと煽ってうまいことアクセス数を稼ぎうまいこと金儲けをするビジネスモデルが成立してゐる。したがって、これからも巧言令色の「マスコミが報道しない真実」系インフルエンサー達の活躍が続くことは確実と思われる。

ぼくが個人的に怖いと思ってゐるのは、反ワクチン運動の拡大よりも、レイシズムのほうである。あるいはそれらの合流である。日本が今後さらに没落していくならば、「反日依存型愛国」はさらに興隆して一般化するだろうし、先鋭化してDHCの会長のような妄想的世界認識をもつようになった人達がカルト化することも考えられる。

デマや陰謀論ヘイトスピーチを抑制するためには、よくいわれるようにプラットフォーマーの対応が必須だ。なんらかの法整備も必要かもしれない。ネットリテラシー教育も重要だ。その上で、より大きな話をするならば、「凡庸でよい」という思想をこの社会が実装することが大事だとぼくは思う。

人々が「マスコミが報道しない真実」を求め、しばしば「信者」となるのは、自分が特別だと思いたいからだ。他の人より賢い、優れてゐる、みんな騙されてゐるのに自分は真実を知ってゐる、選ばれた人間である。そう思いたいからだ。

「マスコミが報道しない真実」の探求者も信奉者も、自己評価とは裏腹に、凡庸な人々である。マスコミの偏向に気づき、検索し、政府のウソや専門家の党派性や大企業の陰謀を発見し、鬼の首でも取ったように「ここに真実がある」と言い立てる。定められたレールを歩いてゐる。ちっとも特殊ではない。凡庸だ。

凡庸と言われて腹が立つとすれば、権威主義と自己責任論を内面化しすぎてゐて、誰かより上に立ってゐないと自分に価値がないように感じるからだ。さまざまな属性や状態に序列をつけて格付けし、そこそこ上でないと不安になる。その不安に「マスコミが報道しない真実」が付け込んでくる。

人に優越してゐる必要はない。いのちの価値は平等であり、生きてゐるだけでよい。凡庸でなにがいけないのか。言うのは簡単だけれど、人間は弱いので、自分の凡庸さを受け入れることはむづかしい。おそらく一生かけてやっていくことだ。

この生涯かけた大仕事に取り組むための余裕と、それが必要なのだという社会的合意が、いまの世の中にはない。