手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「社会をつくれなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田國男入門」大塚英二

社会をつくれなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田國男入門

大塚英二 角川EPUB選書 2014

遠野物語」くらいしか読んだことがないぼくにはとても新鮮だった。

近代社会はぼくたちを「イラつかせる」左翼的なことばと、ぼくたちを「心地よくさせる」愛国的なことばの二種類のことばをつくっていく。日本は相対的に前者の左翼的なことばが特に未成熟/不徹底である。

柳田は左翼的なことばと愛国的なことばと両方をもってゐた。柳田における二種類のことばの相克を追うことを通じて、日本における左翼的なことばの未成熟/不徹底(=社会が存在しない)について考えよう、近代をきっちりやろうよと提案。

(・・・)ここは冷静になって考えてください。「サヨク」というのは近代をきっちりやろう、という思想なのですね。その「良い子」な感じがムカつく人もいると思いますが。

 一方で、「サヨク」が嫌いな人たちにとって、「国家」とか「伝統」とか「日本」とか、その種類のタームは心地良いはずです。その心地良い感情を「愛国心」としばしば呼ぶわけです。その気持ちよさは仲々に陶酔的ですね。

 そして、何で「サヨク」にはイラつき、「愛国」はかくも心地良いのかという問題は、柳田國男という人の思想や「ソーシャル」のこの国における不成立を考えていく上で実は「わかりやすい」導入部となります。 25頁

 しかし、柳田國男という人はこの二つのことばを徹底して突き詰めて彼の学問をつくりました。ですから今の web 上の感覚でいうと、一方の柳田は「サヨク的」(ただし彼はマルクス主義者ではありません)、もう一方の柳田は「愛国的」(ただし戦死者の靖国神社への合祀には反対していました)ということになるでしょう。 26頁

左翼的なことばと愛国的なことばを文学史上の用語に置き換えると「自然主義」と「ロマン主義」になる。柳田の民俗学自然主義的な側面をもつ。

近代社会では個人が自分たちの社会について観察して記録して考えることが必要である。そのような技術をひとりひとりがもたねばならない。柳田は民俗学をそのためのツールとして構想してゐた。

次の箇所に強く共感。見事な整理だと思う。

 つまり冒頭で申し上げた、「サヨク」の本来のあるべき姿は「公民の民俗学」であり、ネトウヨや「愛国」という心情はあくまでも「ロマン主義文学」によって追求されるべき心情である、ということです。いくら日本人として国を愛した気になったり、LINE や Twitter でつながった気になったところで、外交問題も福島の復興も解決しないよ、ということにさすがに三・一一から現在に至る流れの中で実感した人が相応にいるはずです。

「私であることの不安」の「私」を「日本」に一挙につなげるセカイ系ロマン主義です。「不安な「私」」と「日本」がシンクロすると、すると「私である不安」を脅かす存在に近隣の国が見えてきます。その不安を解消する政策は「軍拡」(と、いい加減はっきり言えばいいのです)しかありません。「私」と「日本」を一体化させ、日本人として「誇り」を持ったところで、原発もアジアの外交も社会格差も年金問題も食糧政策も解決しないのに、それをすり替えてやり過ごしているのがこの国の現状です。

 ロマン主義では社会問題は解決しません。 109頁

ロマン主義で社会問題は解決できない。「物を考える」スキルを身につけ、公共性や社会をになう責任主体にひとりひとりがならねばならない。

 もう一度、ここで確認しますが、柳田の言う「公民」とは選挙を介して「社会」の問題を解決していく有権者のことをいいます。そのためには「選挙群」ではなく「選挙民」という「個人」を育てることが重要です。「公」という多数派や空気に個人の考えを放棄して従う、つまり「滅私奉公」するのが「公民」だと考えがちです。しかし、柳田は「公」という公共性や社会をつくる責任主体が「公民」です。このような「公民」に滅私奉公で従えるのは「公僕」、つまりパブリックサーバントとしての「公務員」(政治家や官僚)です。現在はここが全くもって混乱しているわけです。

 しかしこの後もこの国ではずっと現在に至るまで「選挙する個人」でなく、右翼も左翼も宗教団体も選挙組織しか作ってこなかったし、こういう組織に属さない人間が、では自分で考えて投票するかといえば常に何かのブーム、「空気」に流され行ったり来たりです。 230-231頁

大塚さんは「web というインフラが整った今が「近代」をこの国がやり直す最後のチャンスだ」と考えてゐる。

まったくその通りで、ぼくたちがちゃんと「個人」になって「社会」をつくらないと社会問題は絶対に解決しないだろうと、理屈では納得する。けれども、このような「イラつかせる」左翼的なことばが日本人にまったく響かなくなってゐるのも事実である。

言論界を見てゐても、最近は、日本人が「個人」になれず「空気」に流されてしまう性質を変えることはできないので、それを前提としたうえで民主制の弱点を補完できるような仕組を考えるべきという議論が目立つような気がする。エリート主義を復活させるとか、テクノロジーにより大衆の智恵をひろいあげるとか。

どうしたもんでしょう。たしかなことは、制度をどういぢくっても、公共性や社会をつくる責任主体たることを諦めた国民ばかりではうまくいくはずがないということ。

というわけで、わたくしは大塚さん編の「柳田國男民主主義論集」を読む本リストに入れたのであります。