手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「自分の中に毒を持て」岡本太郎

自分の中に毒を持て岡本太郎 1993 青春文庫

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グラスの底に顔があってもいいぢゃないか!

十数年ぶりに読み返した。

いや、すごい。爆発してます。

十八歳でパリにやってきた岡本太郎は「人生いかに生くべきか」という大問題に直面した。そして、、、

  残酷な思いで、迷った。ぼくはごまかすことができないたちだから。そして・・・今でもはっきりと思い出す。ある夕方、ぼくはキャフェのテラスにいた。一人で座って、絶望的な気持ちで街路を見つめていた。うすい夕日が斜めにさし込んでいた。

 「安全な道をとるか、危険な道をとるか、だ」

 あれか、これか。

 どうしてそのときそんなことを考えたのか、今はもう覚えていない。ただ、このときにこそ己に決断を下すのだ。戦慄が身体の中を通り抜ける。この瞬間に、自分自身になるのだ、なるべきだ、ぐっと総身に力を入れた。

 「危険な道をとる」

 いのちを投げ出す気持ちで、自らに誓った。死に対面する以外の生はないのだ。その他の空しい条件は切り捨てよう。そして、運命を爆発させるのだ。 19-20頁

全篇この調子、このテンション、この爆発力、この茶目っ気ですすんでいきます。

最後までずーと、この種の話が、この名調子で、爆発的にドラマティックな修辞でつづきます。それが妙にチャーミングなもので、しまいに、「よおし、オレも、危険な道を・・・」なんて意気込みはじめる笑

たしかに「教祖」感がある。

 だから外から見れば、あいつはいい気なやつだと思われたりする。だが見えない裏での絶望的な闘いはきびしい。言いようがない。貫くのだ。

 もちろん怖い。だが、そのときに決意するのだ。よし、駄目になってやろう。そうすると、もりもりっと力がわいてくる。

 食えなけりゃ食えなくても、と覚悟すればいんだ。それが第一歩だ。その方が面白い。 30頁

食えなきゃだめだよ!

と突っ込みそうになる一方で、いや、食えなくても、面白いかも。。。という気持ちになってしまう。爆発的な説得力。

 実力がない?けっこうだ。チャンスがなければ、それもけっこう。うまくいかないときは、素直に悲しむより方法がないじゃないか。

 そもそも自分を他と比べるから、自信などというものが問題になってくるのだ。わが人生、他と比較して自分をきめるなどというような卑しいことはやらない。ただ自分の信じていること、正しいと思うことに、わき目もふらず突き進むだけだ。

 自身に満ちて見えると言われるけれど、ぼく自身は自分を始終、落ちこませているんだ。徹底的に自分を追いつめ、自信を持ちたいなどという卑しい考えを持たないように、突き放す。

 つまり、ぼくがわざと自分を落ちこませている姿が、他人に自信に満ちているように見えるのかもしれない。

 ぼくはいつでも最低の悪条件に自分をつき落とす。そうすると逆にモリモリッとふるいたつ。自分が精神的にマイナスの面をしょい込むときこそ、自他に挑むんだ。ダメだ、と思ったら、じゃあやってやろう、というのがぼくの主義。 63頁

明朗、ほがらか。すごいです。

自信を持ちたいなどというのは卑しい考えなのだ。これは岡本太郎にとっては逆説ではくて、自分の全存在を世界にぶつけるという爆発的生きかたから出てくる、まったく率直な発想なのですね。

わざと自分を落ちこませるって、あきらかにヘンテコなのですが、つぶされそうになったところに、そのような逆境においてはじめて、生命の核みたいなものに肉薄できるということなんでしょう。そこで、モリモリっとふるいたつ。

そういう生きかたを本気で貫いた人だから、随所に、あっと驚くような鮮烈な文句が登場する。人が生きることのぎりぎりの本質を突いたようなことば。たとえば、

 ぼくは若い頃から、「出る釘は打たれる」という諺に言いようのないドラマを感じていた。何かそこに素通りできない問題がある、という思い。

 確かに、出る釘なんて恰好よくない。しかし、運命として、何としても出ずにはいられないから頭をもちあげたという感じ。それに対してこの世界は冷たい金槌で、容赦なくピシャッと叩きのめすのだ。 103頁 

ここなんかほとんど詩のようだと思う。「出る釘は打たれる」なんて日常いちばんよく使うくらいの諺だけれど、ここに神話的なドラマを見いだす目。出る釘をめぐる考察が、物凄い。

 ところで、諺としてこのような、いわば残酷なイメージがあるということ。つくづく感じるのだが、ここには痛切な現実感がこめられているのではないか。何ごとについても惰性的であり、危険を避け、無難であることが美徳とされているのが日本一般のモラルだ。会社や近所づきあい、普通の人の処世術でも、議会における答弁にしても、経済人たちの発言・行動も、そして芸術表現までが何となくあたりの気配ばかり見回して煮えきらない。

 だがそういう表向きの、さからうことのできない道徳観の一方に、このような皮肉な、強烈な表現が凝固している。これはピープルの心の奥底に、やはり人間的情念として、打たれることの痛み、と同時に出る釘への悲願のようなものが渦巻いていた証拠ではないか。

 打たれる釘の、悲劇的であり、矛盾をこめたありよう。残酷であり、滑稽でもある。

 そんな姿への言いようのない共感、心にひっかかり、惹きつける何かがあったに違いないのだ。

 でなければ、人生、まったく空しいからだ。 111-112頁

たしかにそうだ。出る釘は打たれるからさあ、なんて自嘲気味にニヤニヤ笑ってゐる場合ではない。そこに生の本質があるぢゃないか。

「出る釘は打たれる」という諺がなにやら壮大な叙事詩のような巨大さをもって迫ってくる。

そうだ。

なぜ日本人は「出る釘は打たれる」なんて諺をつくったか(ほんとは杭だよね)、なぜこう毎日のように愛用して倦むことがないのか。それは「ピープルの心の奥底に、やはり人間的情念として、打たれることの痛み、と同時に出る釘への悲願のようなものが渦巻いていた」からなんだ。

すごいなあ。こんな「読み」ある?

なんかそんな気がしてきたわ。

不思議だ。なんだかモリモリッと力が湧き上がってくるようだ。

 全身全霊が宇宙に向かって無条件にパーッとひらくこと。それが「爆発」だ。人生は本来、瞬間瞬間に、無償、無目的に爆発しつづけるべきだ。いのちのほんとうの在り方だ。 216頁

そして、最後、人類の運命について。

 個人財産、利害得失だけにこだわり、またひたすらにマイホームに無事安全を願う、現代人のケチくささ。卑しい。小市民根性を見るにつけ、こんな群れの延長である人類の運命などというものは、逆に蹴とばしてやりたくなる。

 人類本来の生き方は無目的、無条件であるべきだ。それが誇りだ。

 死ぬのもよし、生きるもよし。ただし、その瞬間にベストをつくすことだ。現在に、強烈にひらくべきだ。未練がましくある必要はないのだ。

 一人ひとり、になう運命が栄光に輝くことも、また惨めであることも、ともに巨大なドラマとして終わるのだ。人類全体の運命もそれと同じようにいつかは消える。

 それでよいのだ。無目的にふくらみ、輝いて、最後に爆発する。

 平然と人類がこの世から去るとしたら、それがぼくには栄光だと思える。 246頁

いいですね。平然と、去りたいものです。

無条件にパーッと、とか、モリモリッとか、長嶋茂雄さんと対談したらスゴイことになりそうですね。