手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

安心感

朝、犬の散歩をしてゐるときに、小学生の女の子二人組に出会った。聞けば、社会科見学で国会議事堂へ行くのだという。ということはたぶん5年生か6年生だろう。最近ぼくは「マスクいつまでつけるのか問題」に関心をもってゐるので、小学生はどう感じてゐるのだろうと話をふってみた。

小学校では基本的にずっとマスクをつけてゐる、体育のときだけ外していいことなってゐる、とのことだ。続いて一人の子がこう言った。「わたしたちも実はマスクに慣れてしまって、もう外したくないと思ってます。口元が隠れて見えないのが安心感があるんです。」

この言葉をどう受け取ったらよいだろう。小学生も高学年になると、「個人としての輪郭を消して匿名でゐたい」という日本的(非)社会性が確立してゐるということだろうか。あるいは容姿についてのコンプレックスを自覚し始めてゐるということか。

そういう面もありそうだ。が、「口元が隠れて見えないのが安心感があるんです」というセリフは、なんだかきちんとしすぎてゐて借物の感があった。親との会話とかテレビやネットの言葉を聞き覚えたのが口から自然に出てきたような。

いづれにせよ、社会のルールを決めてゐるのは大人のほうで、子供は大人のマネをするしかないのだから、マスクをつけるもつけないも大人の問題だ。

いまでも感染者は毎日何千人か出てゐるが、医療崩壊の話は聞かなくなった。専門的なところは分らないが、おそらくはウイルスそのものの弱毒化とワクチンの効果によって、新型コロナウイルスの社会的脅威度はかなり小さくなった。

とすると、感染症対策の代表であるマスク着用についても、これまでと同じであっては不合理だ。政府も屋外では外してよいというふうに方針転換を示したが、街を歩くとまだみんな(と言ってよいだろう)始終マスクをつけてゐる。つまり同調圧力をつけて歩いてゐるだけのような場面がすごく多い。これはすごく不健全だ。

マスクを外したくない理由として、「口元が隠れて見えないのが安心感があるんです」というような意見はよく聞く。本当にそう感じてゐるとしたら、マスク着用の長期化によって、個人でゐることに対する忌避感(匿名性への逃避)と容姿についてのコンプレックスが強化されてゐるということだから、その安心感はいつわりで、問題が陰性化するだけではないだろうか。

ぼくは公共空間で平気で個人としてゐられるほうがよいと思うし、容姿コンプレックスも(決して消えることがないにしても)、あんまり気にせずにいこうぜというエエ加減な態度がよいと思う。

必要な感染症対策をしてゐる安心感と、人目を気にせず平気で個人として顔をさらしてよい安心感と、どちらも大事だ。だからぼくはこのふたつを峻別して、マスクをつける/つけないを実践したい。