手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史」長尾龍一

リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史長尾龍一 講談社学術文庫 1994

 私はホッブズ、ケルゼン、シュミットという三人の思想家の国家論を基軸として、国家史を再構築するという試みを、すでに三十年以上に亘って続けてきた。その間私を導いてきた基本思想は、「世界の部分秩序である国家を、『主権』という、唯一神の『全能』の類比概念によって性格づける国家論は、基本的に誤った思想であり、また帝国の『主権国家』への分裂は、世界秩序に責任をもつ政治主体の消去をもたらした、人類史上最大の誤りではないか」というものである。 6-7頁

 しかし仮に人類が救済さるべきであるとすれば、十六・十七世紀にヨーロッパが犯した「主権国家」想像という過ちを回顧し、それを是正する方向にしかその道はないと思うのである。 8頁

イスラーム学者の中田考さんも同じことを言ってゐた。領域国民国家は限界である、だから「カリフ制再興」が必要であると。たしかに、定規で線を引いたような国境があり、その線を境に敵と味方に分かれてしまうのはまったく不合理かつ非道と思う。絶海の孤島の領有権をめぐって「愛国者」たちが噴き上がるさまを見ると、人類のバカさ加減にうんざりする。

 帝国は、その創始と継続の過程において、多くの血と涙を伴ったとはいえ、多様な民族と文化を共存・交流させ、広汎な領域に交通網を張り廻らし、そして人々に平和と安定を与えた。帝国内の諸権力・諸集団(王国や都市国家など)も、自らを普遍的な秩序の一部であると自覚していた。 30-31頁

帝国が解体される契機となったのは宗教戦争である。16世紀初頭にルターがはじめた宗教改革は、教皇と皇帝の神学的・宇宙論的権威に対する挑戦だった。人々は「正しい信仰」をめぐって戦争をはじめた。一世紀以上にわたる血みどろの戦いのなかで、宗教問題を棚上げして現世の秩序をつくろうとする動きが登場する。

宗教から独立した領域を承認し、宗教は社会における「私事」として位置付け、非宗教的な「国家」がこれを保障する。この試みが近代「主権国家」へと発展する。

 近代「主権国家」は、このような潮流の中で、地域的に限定され、脱宗教家し、現世の秩序を保障する主体、宗教戦争・宗教内戦の克服者として登場した。この国家の特質の一つは、領土の観念である。(・・・)帝国の支配領域は、中華帝国の「天下」のように、観念上無限界である。(・・・)それに対し「主権国家」は、幾何学的厳密性をもった国境によって限界づけられ(例えば西カナダとアメリカ合衆国西部の境界は北緯四十九度線、ユークリッド幾何学の線の定義のままに「幅のない線」である)、内部についての排他的管轄権をもつ。国境線は常備軍によって防衛され、厳重に管理される。その国境内において、主権者たる絶対君主が、「地上の神」として支配するのである。 36頁

国家は部分秩序にすぎず世界秩序に責任をもつ政治主体ではない。だから環境・資源・人口・武器拡散などの問題に人類が連帯して対処するには国連の権能を強化するほかないと本書は主張する。

 最初の主題に戻るならば、国家は擬人化された法秩序であり、国際法秩序の中の部分法秩序である。その部分を唯一神になぞらえた「主権国家」論の誤りは、理論的にも実践的にも明らかになった。そして、国際法と国内法は別の体系で、国際法は国内法管轄事項には介入し得ないという「国際法・国内法二元論」は、擬人概念である国家を実体化した誤謬の上に成立した議論である。それ故、人類の連帯によって人類の当面する問題に対処すべきであるとするならば、国際法的立法機関としての国連の管轄事項を徐々に拡大していく他はなく、「主権国家」というドグマによってそれを妨害することはできないというべきである。とくに米中露、EU、それに「経済大国日本」などのような「リヴァイアサンに鼻ぐりを通す」ことこそ、人類の生存にとって不可欠の重要性をもつものであろう。 68頁

正論だが、それはまったく望み薄だから中田考さんは「カリフ制再興」を提言してゐるのだろう。人類の多くはまだ地上の神である国家を信仰してゐて、国際的公共性を担う組織としての国連には神的権威を微塵も感じてゐない。そんならアッラー以外の権威を認めないイスラーム教徒がカリフ制を再興して国家概念を解体するほうが現実的かもしれない。

日本については、①皇居を京都に戾し、②現在の皇居に国連本部を移し、③自衛隊を改組して、国連の直属軍とすることを提案してゐる。

(・・・)マッカーサーの思想は、はなはだしい先走りであったが、しかし今後日本が、多少有するに至った軍備を、率先して世界のために供出することは、憲法第九条の本来の主旨に沿うものである。(・・・)ともあれ、環境破壊・武器の拡散等、全人類的危機が迫りつつある中で、小局的対立にうつつを抜かす愚考に多数の人類が陥っている中で、財政的軍事的基礎をもった国際的公共性に担い手を創出することは人類的課題である。財政的余裕をもち、かつ明確な敵をもたない日本のような国が一肌脱ぐことは、人類史的意義をもつもののように思われる。 256頁

日本は憲法九条の理念を、少しでも、ほんの少しでもいいから、あるいは態度だけでも、現実化できるような国家を目指すべきである。だから私は著者の提案に賛成である。しかし現実はまったく反対へ進んでゐる。

アメリカに言われて防衛費を二倍にすることを決め、憲法九条は近年の国家主義者達の活躍によって形骸化しつつあり(平和安全法制、防衛3文書)、その正当化のために近隣に明確な敵をつくることに必死である。おまけに30年の経済的低迷のせいで財政的余裕もない。日本が人類的課題のために一肌脱ぐことは、現状、期待できない。無念だ。