手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「近代政治哲学: 自然・主権・行政」國分功一郎

近代政治哲学: 自然・主権・行政國分功一郎 ちくま新書 2015

2013年刊行の「来るべき民主主義」の続編のような内容。

「来るべき民主主義」は著者がコミットした小平市での住民投票の経験から現在の民主主義の問題を考えるという内容だった。

いまぼくたちがふつうに民主主義というとき、その中身は、主権者である国民の代表を立法府である議会に送り込むことで国民主権を実現するという議会制民主主義である。立法府が国権の最高機関なのであるから、ここへ代表を送りこむことが主権の実現である。ロジックとしてはそれでよい。

しかし、法に基づき、具体的な状況に即して政治的決定を行うのはつねに行政府である。実際には行政府が全部決めてゐるのに、これに主権者である国民はほとんど関与できない。行政府の権力は肥大化し、しばしば民意と乖離する。主権者は不満である。この懸隔を埋める方途はないか。

本書「近代政治哲学」はこの問題意識の延長に書かれた理論編。いったん現実から離れ、「自然・主権・行政」という近代民主主義の根幹にある概念の検討を行う。つまり、哲学する。

けっこう硬めの文体だけれど、いたるところから、國分さんの「楽しいぜ~」という声が聞こえてくる。特に、やはり國分さんの専門であるスピノザの箇所など、知性のドライブがこちらに伝わってきて興奮する。

こういう本を読むと、知とか哲学というものが現実から遊離した知識人の遊びなんかではまったくないことがよくわかる。

人間は言葉=概念によりかかって現実を認識し、ものを考える。いまの現実に問題があるならば、その現実をただしく理解するための言葉=概念が必要だ。言葉=概念が混乱してゐては、なにがどう問題なのかが分からないし、どうすべきかを考えることなどできるはずがない。

本書が出版された2015年、ぼくは安倍政権のあまりに強引な政権運営と歴史や知への敬意のなさに強く怒り、いったいどうなってしまうのだろうと憂鬱な気持だった。

あれから7年が経った。その間、2017年にはトランプ大統領が誕生し、2020年にはコロナパンデミックがあり、そして先日、ロシアのウクライナ侵攻が始まった。停戦の見通しは立ってゐない。

国内では戦争に興奮したそそっかしい人達が日本も核保有が必要だと言い始めた。これから恐怖に支配された安全保障の議論がさらに大きくなりそうだ。

いよいよ世界は混迷。ほんとうに、いったいどうなってしまうのだろう。

國分さんは「哲学のない時代は不幸だが、哲学を必要とする時代はもっと不幸だ」と言う。いよいよ不幸な時代になったと思う。

(・・・)恐怖こそは人々を迷信へと駆り立てる最大の力である。外から見れば、ばかばかしい宗教や幻想であっても、恐怖に駆られている人はそれを信ずる。恐怖に駆られて何かを信じるということは、自らの力で自由にものを考えず、隷従するということだ。そして隷従する方が楽なのである。隷従は恐怖や不安を解いてくれるから。

 不安や恐怖を抱くことが避けがたいのであれば、人間が隷従へと向かうこともまた避けがたい。スピノザ哲学の全重量は、どのようにすればこの隷従から逃れて自由に生きることができるかという問いにかかっている。 86頁

 こうして見てくると、ホッブズの政治哲学を確かに下敷きとはしているものの、スピノザの政治哲学は、それとは全く正反対の結論に至っていることが分かる。ホッブズは、恐怖こそ最も政治的な感情であり、これこそが国家と社会秩序を生み出すモーターであると考えた。それに対してスピノザは、人々が恐怖と不安にかられて自由を放棄し、隷従するようになれば、むしろ国家は崩壊すると考えている、なぜならば、臣民が隷従した結果として権力の集中が起これば、統治の機能不全を生み出すからである。

 権力を集中させるとむしろ統治はうまくいかない。なぜならば、それほど大きな権力を担える者は存在しないからである。したがって、民衆が自由にものを考え、統治を監視できるような体制が整えられねばならない。つまり、民衆の自由はそれ自体としても尊重されねばならないが、国家の統治のためにも民衆の自由が必要なのだ。これは今日の政治にもそのまま当てはまる卓見と言うべきだろう。 94頁

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追記

☟こちらとっても面白かったです✨

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