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「訂正可能性の哲学」東浩紀

訂正可能性の哲学東浩紀 ゲンロン 2023

まづ第一部、ウィトゲンシュタインクリプキの読み替えによる「家族」概念の再定義がベラボーに面白い。そして今度はその議論をふまえてルソーの読解を行う第二部がこれまた圧倒的に面白い。じつはさっきの概念はここにつながるんですよというのが何度も登場してそのたびにオオッとなる。

図式的にすっきりしてゐてあまりにきれいに呑み込めてしまうのでちょっと心配になるが、東さんはふつうのひとに哲学を届けるためにそこはあえて剛腕をふるってゐるのだろう。註にはそういうことが書いてある。ここでは議論を進めるためにあえて単純化してゐる、というような留保。

剛腕だ。妙な感想だが、ジェームズ・キャメロンみたいだと思った。わたしは彼の「エイリアン2」と「ターミネーター2」が大好きである。フィルモグラフィーのなかでそのふたつが特に優れてゐるのかは知らないが、子供のころにテレビで放送してゐたのを録画して何度も見たせいで特に愛着がある。

ふと思ったのだが、「エイリアン」や「ターミネーター」などのシリーズものも、過去作を参照して「訂正」を行い新しい物語を生み出すという営みだから、「訂正可能性の哲学」で説かれてゐることに通じるものがあるのではないか。

監督が変わり、脚本が変わり、主演が変わり、時代も変わる。あらゆるものが変わるなかで「エイリアン」「ターミネーター」という名前は継続し、新作のたびに「これこそエイリアンだ!」とか「こんなのターミネーターぢゃない!」とか言って楽しんでゐる。

「エイリアン」はリドリー・スコットがつくった。SF怪奇ホラーとでも言えるような気持ち悪い(そこがいい)カルト作品だったが、ジェームズ・キャメロンは第二作でこれを戦争アクションに変えた。カッコイイ武器をつかってカッコイイ男女がエイリアンと闘う娯楽大作をつくりあげた。いまでもときどき見返す大好きな作品だ。

「エイリアン」は2010年代にリドリー・スコットが監督に復帰して前日譚を二本撮ったが、興行的にふるわず三作目の製作はストップしてゐるようだ。けっこう好きだったから残念に思ってゐる。マイケル・ファスベンダーがすごくいいのに。「グラディエーター2」の次に撮ってほしいですね。

ターミネーター」は1と2があまりに素晴らしいのでその遺産でまだシリーズが続いてゐるが、結局のところ3以降はうまく行ってゐないように思われる。現在のところの最新作である「ターミネーター:ニュー・フェイト」は個人的には良いと思ったが、続篇の話は聞こえてこない。

ターミネーター」シリーズの失敗の原因はなんだろうか。「訂正可能性の哲学」の議論をふまえて考えるなら、過去作の「リセット」をやってしまったからだと思う。3と4をなかったことして、「これこそが2の続篇です」を二度やってゐる。そりゃないだろと観客は思った。

制作側の問題以上に、「ターミネーター」はそもそもがシリーズに向いてゐないとも考えられる。物語そのものが「リセット」を誘発してしまう。なぜならタイムスリップものだから。任意の時空から任意の時空へと移動できるわけだから、要はなんでもありなのだ。なんでもありの設定のなかで、シュワちゃんだけが老いてゆく。

シュワちゃんの老い方がじつに味わいぶかいもので、どんどん人間的魅力が増してきて、もはやまったくターミネーターに見えない。ふつうにいい顔のいい俳優になってしまった。そこで若いシュワちゃんをCGでつくったりするのだが、それもまたある種の「リセット」であって、興がさめる。「ターミネーター」シリーズはもう無理だろう。

「訂正可能性の哲学」を読んでゐるうちにいろいろ思いついてしまった。いろいろ思いついてしまったことについてこのように考えさせ、書かせるのだから、まったく実用的な哲学書であり、東さんの構想は完全に成功してゐると思う。読んだひとは訂正という概念をつかっていろんなことを語りたくなるはずだ。

もうひとつ、あ、これはまさに訂正だ、と感じたことがある。田中みな実について。

TBSラジオに「田中みな実 あったかタイム」という番組がある。10年前、まだブリブリの「みんなのみな実」だったときは先輩アナウンサーとマウントを取り合う「ひんやりタイム」だった。それが、最近ひさしぶりに聴いて発見したのだが、思いきや、仲良しゲストが定期的に登場してお約束のボケとツッコミを提供する文字通りの「あったかタイム」に生まれ変わってゐた。

これには驚いた。面白過ぎず、かといって退屈でもなく、まことにちょうどいいあんばいなの。ちょうどいいラジオって最高ぢゃないですか。見事な訂正と思う。

今日は土曜日だから「あったかタイム」の日ですね。またドランクドラゴン鈴木拓がゲストかな。ちょうどいい。あったかタイムを聴きながら夕飯の用意をする。いいぜ。

以下、ノートをば。

 けれども、そのような批判はいささか的を外している。クリプキはおそらく、名指しへの遡行が現実に可能だと主張したかったわけではない。人々がそれを可能だと信じていると主張したかったわけでもない。ただ、固有名の奇妙なふるまいを観察すると、人々がそう信じていると仮定するほかなくなってしまう、そのような背理法にも似た論理を展開したにすぎないのである。起源への遡行、「伝統」なるものは、現実には存在しないかもしれない。にもかかわらず、ぼくたちはあたかもその存在を信じているかのようにふるまっている。そこが大事なのである。 74頁

 ぼくたちは単純な加法ですら完全には定義できない。クリプキ懐疑論者を排除できない。だとすれば、真理や善や美や正義といった厄介で繊細な概念について、同じようにすべてをひっくり返す懐疑論者の出現をどのようにして排除することができるだろうか。人文学者はそのことをよく知っている。それゆえ人文学は、すべての重要な概念について、歴史や固有名なしの定義など最初から諦めて、先行するテクストの読み替えによって、すなわち「訂正」によって、再定義を繰り返して進むことを選んでいるのである。それは結果的に、先行者の業績を無批判に尊重する、非科学的で権威主義的なふるまいにみえる。しかしけっしてそれが目的なわけではない。 135頁

 話を戻そう。ぼくは前章で、人工知能民主主義は訂正可能性を消去するから問題なのだと記していた。

 なぜそれが問題なのか。ここまでの議論はその問いに簡単な答えを与えてくれる。人工知能民主主義、あるいはアルゴリズム的統治性、あるいはその実装としてのビッグデータ分析の政治的な利用、呼び名はなんでもよいが、そのような構想のもので情報技術で支援される権力は、その原理上、ひとを固有名として扱うことができない。統計による予測は、いくら精緻になったとしても、ひとを個人ではなく群れの一部として扱うことしかできない。そこでは「じつは・・・・・だった」という訂正の論理も働かないし、市民の主体化も起きないし、「現れの空間」も立ち上がらない。一般意志の規定を素朴に受け取り、その逆説の背景にあるルソーの葛藤を無視し、群れとしての人民の意志をビッグデータから抽出し統治の基盤にするだけでは、民主主義にとって重要なものが欠けてしまうのである。

 人工知能民主主義には訂正可能性がない。いちど定まった一般意志は「正しい」だけで訂正されない。だからそこでは市民は、いちど属性を与えられたら、永遠にその属性から脱出することができない。いくら善行を積み重ねても、「あなたに似た人々」が犯罪者である限りにおいて、あなたは永遠にリスク集団の一員として分類され続ける。あなたは、あなたが男性であること、あるいは女性であること、ヨーロッパ人であること、アジア人であること、マジョリティであること、マイノリティであること、加害者であること、被害者であること、それらすべての規定から永遠に脱出することができない。あなたの行動はつねに「あなたに似た人々」に差し戻され続ける。それが人工知能民主主義の世界だ。 244-245頁

統計は固有名を消去するという指摘はすごく納得。統計的にこうだからこうなんだという議論に対して「いや、そうかも知れんけど、実際に自分がどうであるか/どうなるかは別ぢゃないか」といつも反撥を感じてゐたから。