手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「言語が消滅する前に」國分功一郎 千葉雅也

言語が消滅する前に國分功一郎 千葉雅也 幻冬舎新書 2021

12月の頭からクリスマスにかけて、今年中に終らせておきたいアレヤコレヤに取り組んでがんばってゐた。すべて片付き、すでにお休みモードに突入してしまった。年明けまでグータラする。

二箇所だけ、ノートをば。

エビデンス主義の背景にある言葉の価値低下

國分 千葉さんがかねがね「エビデンシャリズム」と言っていることともつながってきますね。これはインターネットに加え、新自由主義的な経済体制の台頭とも相関関係にあると思います。そこでは言葉ではなくて「エビデンス」として認められている、極限まで種類を切り詰められたパラメータに従ってのみ評価が行われ物事が進んでいく。エビデンス主義の特徴の一つは、考慮に入れる要素の少なさです。ほんの数種類のデータしか「エビデンス」として認めない。

 そしてエビデンス主義の背景にあるのが、言葉そのものに基礎を置いたコミュニケーションの価値低下だと思います。人を説得する手段として言葉が使われず、「エビデンス」のみが使われていく。それこそアレントが言っていたような政治のイメージは、みんなが言葉でやり合ってその中で一致を探るというものでしたが、言葉による説得と納得はかつての地位を失ってしまっている。

千葉 言葉で納得するということと、エビデンスで納得するということは違うことなんですよね。

國分 全然違いますよね。

千葉 まずそのことを確認するのはとても大事だと思います。そういうふうに思われていないでしょうから。エビデンスの勝利は言葉の価値低下なのだということが、まずは共有されなければならない。 114-115頁

エビデンス主義という責任回避

千葉 エビデンス主義も結局、一定のエビデンスだとされるものだけを信じていればいいという意味で宗教だし、それを否定すると反科学主義になって、オカルト的なものを信じる宗教になってしまうということですよね。

 本当はそうじゃなくて、何らかのデータであるにせよ思想にせよ、その有効性の軽重を測って調整することが重要なのに、そういう主張がなかなか理解されづらくなっているんですよ。一つの同じ原理で行動していればいいと思ったら楽だから、どうしてもそうなってしまいやすいわけです。

 つまり、状況によって判断することの難しさと責任から逃れようとしていると思うんです、その意味で、エビデンス主義も法務的発想と同じように責任回避に使われやすい。だけど、状況によってどのエビデンスを採用するかという選択の問題だってあるし、人間は決定的な保証のない判断を引き受けざるを得ないこともある。それをとにかく回避したがる風潮が蔓延しているわけです。

 それは組織論にも言えることで、たとえばカリスマ的な経営者に属人的に依存しているような組織はダメで、そういう人がいなくなっても回るシステムを作ることが優先されます。でも、全面的にその方向に行くのは問題だと思うんです。魅力がない人の組織なんてろくなもんじゃないでしょう。次の天才を見つけてくることはやはり大事なんですよ。

 國分さんが言うように、エビデンス主義が民主化だというのはその通りで、要するに誰でもいい、誰でもできる世界を目指しているわけです。個の力は必ずしも信頼できないから、安定的なシステムを作りたいということなんだろうけど、一方で、今日のそういう民主化傾向には、何か個人が突出することを嫌がり、誰かを引きずり下ろすルサンチマン的な傾向もある。そこで嫌われたり、非効率だと退けられたりしていることをどう考えるかが、いま問われているわけです。

國分 オカルトとエビデンスという対比で考えると、オカルトが帰依であるとしたら、エビデンスは責任回避ですよね。たぶん、どちらも近代社会に対する反発なんです。オカルトのほうは、余りに大きな課題を自分一人では担いきれないと感じる人が何か大きなものに自分を委ねようとすることでしょう。

 ではエビデンス主義のほうはどうかというと、これには前史があると思うんです。意志概念に基づいて、個人に課題な責任を負わせるシステムを作ったら、逆説的にもそのシステムを信じている人ほど、この過大な責任を避けたいと思うようになった。その結果としてエビデンスだけに従うマインドが出てくる。責任主体を立ち上げようとしていたがゆえに、エビデンスやルールに従うことでその責任を回避するという無責任な社会が出てきてしまう。 190-192頁