ハイデガーの退屈論における「退屈の第二形式」には驚嘆した。國分さんが繰り返し「すぐれた発見である」と強調するのもわかる。そこを読んだところで、あまりに興奮したから、散歩に出てしばらく考えてしまった。ハイデガーの本はむづかしそうで一冊も読んだことがないけれど、なんとも面白いことを考える人だ。
「退屈の第二形式」とは「何かに際して退屈すること」。ハイデガーが挙げてゐるのはパーティーの例。おいしいものを食べて、美しい音楽を聴き、ひとと楽しく話をする、けれど、アクビが出たり、机を指でトントン叩きたくなったりする、あの感じ。
これは「暇」なわけではない。することはあるのだ、だってパーティーなのだから。だから気晴らしに逃げるわけにはいかない。「パーティー=気晴らし」のなかで「退屈」してゐる。暇ではないが退屈。
この第二形式は「何かに際して退屈すること」と定式化されていた。その「何か」とはこの例ではパーティーを指す。ここで私は、パーティーに際して退屈しているわけだが、実は同時にパーティーそのものが気晴らしであるのだ。だから次のように言えよう。この退屈の第二形式においては、退屈と気晴らしとが独特の仕方で絡み合っているのである。 259頁
國分さんは第二形式こそが「私たちが普段もっともよく経験する退屈」であり「何か人間の生の本質を言い当てている」と述べる。本を読んだり、映画を見たりすることは気晴らしではないだろうか、受験勉強だって労働だって、あるいは気晴らしといえるかもしれない。これらの気晴らしにも退屈は絡み合ってゐるのではないか。
暇つぶしと退屈の絡み合った何かーー生きることとはほとんど、それに際すること、それに臨み続けることではないだろうか? 269頁
とするならば、人生を豊かに愉しく生きるとは、この退屈の第二形式における気晴らしを存分に享受することであろう。それが人間であることを楽しむことなのだ。
しかし、現代の消費社会はそれを許さない。消費社会は第二形式の構造を悪用し、気晴らしと退屈の悪循環を激化させる。それは物を享受する(=贅沢)ことを許さず、観念を消費することを強いるからだ。
ぼくたちは物そのものを受け取る贅沢を、気晴らしを楽しむ智恵を、取り戻さねばならない。
人はパンのみにて生きるにあらずと言う。いや、パンも味わおうではないか。そして同時に、パンだけでなく、バラももとめよう。人の生活はバラで飾られていなければならない。
人の生活がバラで飾られるようになれば、人間関係も産業構造もすこしずつ変化していくだろう。非正規雇用を構造的に要請するポスト・フォーディズム的生産体制も見直しを余儀なくされるだろう。それは大きな社会変革につながる。〈暇と退屈の倫理学〉は革命を目指していない。だが、社会総体の変革を目指している。 402頁
ところで、國分さんはこの10年の安倍・自民党政治にたいして強い抗議を表明してきた人だ。安倍元首相の国葬を前にして、國分さんは先日「国葬を考える」というシンポジウムを開催した。
こんな政治が続いては、日本は「パンもなし、いわんやバラをや」という国になってしまう。だからぼくは国葬に反対する。安倍政治を許さない。自民党政治を終わらせるしかない。
世論調査では国葬反対が過半を占めてをり、岸田首相の支持率も急落してゐる。が、立憲民主党は迷走を続け、支持率がちっとも上がらない。残念だ。